『夕凪の街 桜の国』、こうの史代、双葉社、2004年

これは、絶望と希望の漫画である。

「夕凪の街」は原爆が落とされてから10年後の広島を、
そして「桜の国」はそれから数十年後の1987年と2004年の東京を舞台としているが、
いずれも被爆者の苦しみを描いたものである。


「夕凪の街」は、一言でいえば「絶望」、いや、世界に対する「呪い」を投げつける漫画だ。

ぜんたい、この街の人は不自然だ。
誰もあのことを言わない。いまだにわけがわからないのだ。
わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ、
思われたのに生き延びているということ。
そして一番怖いのは、あれ以来本当にそう思われても仕方のない人間に
自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ

お前の住む世界はそっちではない と誰かが言っている

しあわせだと思うたび 美しいと思うたび、
愛しかった都市のすべてを人のすべてを思い出し、
すべてを失った日に引きずり戻される
お前の住む世界は ここではないと 誰かの声がする

お母さんはあの日のことを見ていない

私が忘れてしまえばすむことだった
 …
お父さんは職場で被爆し、翌日亡くなっていたことがわかった
翠ちゃんは結局戻ってこなかった

わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった

自分を責める思考から抜け出し、やっと自分を許せるようになったときに
悲劇が訪れる。

………嬉しい?
十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て
「やった! またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?

皆実がこう語り、「このお話はまだおわりません」と「夕凪の街」は終わる。

そして、

『夕凪の街』は、35頁で貴方の心に湧いたものによってはじめて完結するものです。これから貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思っています

と作者がこの本を結ぶとき、
ここにあるのは世界への「呪い」以外の何ものでもない。
優しい絵で描かれてはいるが、これは憎しみに満ちた話である。


一方、「桜の国」では「夕凪の街」以上の絶望的な状況が描かれているが、
ここにあるのは未来への希望である。
被爆後、数年経って発症する原爆症放射能障害。
だが、被爆者の真の苦しみはこれに対するものではなく、
この症状の遺伝への恐怖である。
「夕凪の街」で皆実が自分のことを「価値の無い人間である」と
思ってしまったのはPTSDのせいだったかもしれないが、
原爆投下から数十年後、「被爆者の血を引いている」というだけで
周囲の人々から遠ざけられてしまう状況が現れてしまった。


原爆によって娘を無くした母親が、被爆を免れた息子に向かって、

「あんた、被爆者と結婚する気かね。」

と言わざるをえない状況。


「桜の国」は、このような絶望的な状況をめぐる話である。


だが、いや、だからこそ、かもしれないが、この話は希望に満ちている。
「皆実に似ている」とされる「七波」が、しかし性格は全く正反対の男勝りであったり、
この話では、話題のベクトルがすべて未来を向いていることからも明らかだろう。


以上のような内容だが、
この漫画を「反戦漫画」、「原水爆の恐ろしさを訴える漫画」と
括ってしまうのは大間違いだ。
この漫画は、作者の確かな漫画的な技法によって支えられている。
フラッシュバックの表現や、空白のコマ、
そして嫉妬心の描き方などの繊細な表現は、
内容を別にしてもこの漫画が名作であることを示している。


それゆえ、やはりこの本は今後世界を「呪い」続けていく。
「呪力」というものが実在するかどうかはわからないが、
「呪い」の「念」が忘れられずに人々の意識に留まり続けるならば、
その「呪い」は成功だといえるだろう。
この漫画は、その優しく親しみやすい絵と、
その完成度の高さから名作として承認され(今年の手塚治虫文化賞を受賞した)、
広く人々に読まれ継がれていくだろう。

資本主義社会において、商品として市場に流通し続けること。
今日において、これこそ最も効果的な「呪い」にほかならない。

この本に出会えたことに感謝したい。 


夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)