主語はなくても文は立つ

そうなんですよ、これも日本語の特徴です。

イタリア語とかでも主語の省略はよくあるし、わかるときは特に書かなくてもいいんですよ。その方が文がスッキリして、十分意味が通るなら、主語は省略しちゃってもいいんです。

主語はなくても文は立つ

昨年12月10日未明、おやじは亡くなりました。危篤状態だった前日も、亡くなった翌日も仕事に出かけました。「芸人にとって仕事が一番大事。どんな時でも行かなくちゃなんらねえ」。小さい時からずっと聞かされていました。

(江戸屋子猫 朝日新聞2002.1.14)

 

不思議と言うか、奇怪な文章ですね。「危篤状態だった前日も、亡くなった翌日も仕事に出かけました。」とは。

次のように省略されているからです。文頭に「私は」が省略されています。がしかし、読み手は無意識にそれを補って読んでいます。

奇しくも、この記事の翌日の朝刊に、次の広告が載った。

『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』金谷武洋(講談社――「あいらしい」「赤ん坊だ」「泣いた」。日本語の基本文はこの三種で必要十分である。英文法の安易な移植により生まれた主語信仰(傍点)を論破する、全日本語話者、必携の書

 

威勢の良いキャッチフレーズにつられて、図書館で借りて読んだが、途中で投げ出した覚えがある。読者が理解できるように書くという丁寧さが足りない。それが理由だったと思う。