漱石の苦悩 西洋的理論がもたらす分断

朝日新聞「異論のススメ」(2016年12月)より。

管理人は佐伯啓思のすべての思想に共感するわけではないが、この「異論のススメ」はいつも楽しく読んでいる。
引かれている漱石の言葉と合わせて、これには深く同感。


エリート・漱石の苦悩
西洋的理論がもたらす分断

 この12月9日は夏目漱石の100回目の命日である。小説も悪くないが、私は随想や小品が特に好きだ。
 『硝子戸の中』や『思い出す事など』の晩年の随想の味わいなど、こちらが年を経るにつれて、しみじみとした感慨を与えてくれる。もっとも、漱石は49歳で死去しているから、晩年といっても決して年を取っていたというわけではない。
 その漱石が、明治の末におこなったある講演のなかで次のようなことを述べている。ドイツにオイケンという学者がいてこういうことをいっている。近頃、人々は一方で自由や開放を望み、他方では秩序や組織を要求している。しかし、この矛盾するものを両方とも実現することは無理で、どちらかに片づけなければならない、と。
 これは、一見したところもっともらしく聞こえるが、実は、こんなことは、この世界を傍観している学者の形式論に過ぎない。実際には、われわれは、日常生活のなかでこの背馳するふたつのことを両方行っているではないか、と漱石はいう。
 学者というものは、普通の人より頭もよくしっかりとものを考えているのだから、間違うはずはない、と思いがちだが、学者の態度は、対象から身を引き離して、それを観察し形式論を立てるに過ぎない。しかし日常の世界のなかで活動しているものにとってはこんな傍観者的な観察はあまり意味はない。矛盾に満ちたこの世界を自分のこととして体験するほかない、というのである。
 もっともだと思う。だから、漱石は、東京帝大の学者の地位を捨てて、日常の「ふつうの人」の心理や人間関係の、それこそ矛盾に満ちた微細を描く小説家に転身したのであった。
 オイケンを取りあげながら、漱石は、学者の形式主義が、不完全な人間である「ふつうの人」つまり、市井の庶民の心理や経験から乖離してゆくことに不満をもらしていた。今日的にいえば、人間や社会を対象とした実証的科学が、その対象とする人間や社会の実際とはかけ離れていってしまう。それにもかかわらず、社会を指導し、動かすものは、この学者の形式論なのである。各種の専門的な知識人が、傍観者的に、理想的な社会を描き、そちらへ社会をひっぱっていこうとしても、「ふつうの人」は動かない、というわけである。つまり、エリート層と庶民の間に大きな懸隔ができてしまう。

 ここにもうひとつ、大事な問題が絡んでくる。それは、日本の指導的な学者や知識人などのエリート層は、多くの場合、西洋の学問を身に着けた人たちだ、という点である。西洋の近代科学の方法は、まさしく対象から距離を取り、それを観察して、論理的で形式的な帰結を得ようとする。そして、その多くは、西洋社会を対象として得られた「理論」である。それを日本社会に適用すればどうなるか。学者やエリート知識人たちの「理論」はまったく庶民の現実からはかけ離れてしまうだろう。それにもかかわらず、この方向で社会が動くなら、「理論」とは違う「現実」を生きている「ふつうの人々」はますます神経をすり減らしてゆくだろう。
 ところが漱石の生きた明治の時代は、エリート層による欧化政策こそが進歩だとみなされ、近代化とされた。当時の一級の英文学者でありながら、英国留学で散々な目にあった漱石は、エリート知識人たちが拠りどころにする西洋の思考方法は、とてもではないが、そのまま日本に当てはまるものではないことを十二分にわかっていた。とはいえ、漱石もまたひとりの知識人である。そこに彼の苦悩があった。
 こうしたことは、グローバル化や国際化が叫ばれる今日のわれわれにも無縁ではないと思う。大学で教えていたころ、私は、1、2回生向けの少人数講義で、しばしば、「現代日本の開化」や「私の個人主義」といった漱石のよく知られた文明批評を取り上げたが、大半の学生は、ここでの漱石の問題に共感を示していた。それは、今日の「われわれ」の問題でもある、というわけだ。

 確かに、この20年ほどをみても、グローバル化へ向けた社会変革を説く専門的学者や官僚、ジャーナリズムなどのエリート知識層は、西洋(特にアメリカ)発の学問や知識を母体にした合理主義で社会を「進歩」させようとしてきた。そして、それがどうやらエリート層と庶民の
間の大きな分断を生み出すであろう、という様相は、日本よりも、まずは、トランプ現象に翻弄されるアメリカをみれば顕著であろう。
 もっとも、アメリカなどよりも社会の一体感のつよい日本では、エリート知識層だけではなく、「ふつうの人」の方も、西洋発の知識や思想を権威と考える傾向が強い。

 漱石は、ある「断片」のなかで次のようなことを書いている。近年では、「現代的」という言葉がよく使われる。これに対して、昔の人は古人とか古代を尊敬したものである。だが今日の日本では、西洋の新しい人の名を口にすることが権威になっている。つまり、昔の人ではなく、自分に近い同時代人を持ち出す。この傾向が極限までくれば、自己崇拝ということになる。じっさい、今日の日本人が新しい西洋人の名前を引用するのは、その人を尊敬しているからではなく、その名前を借りて自分を崇拝しているのだろう、と。漱石の死から100年たって、残念ながら事態はどうもあまり変わってはいない、といわざるを得ない。

【異論のススメ(朝日新聞)】

佐伯啓思(さえき けいし)
1949年生まれ。京都大学名誉教授。
保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など

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