『ウェブ時代をゆく ―いかに働き、いかに学ぶか』、梅田望夫、ちくま新書二〇〇七年



ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)


ウェブ進化論』に続いて読んでみた。
著者自身書いているように、揺るがない「前進する意志」のもと、
「不特定多数無限大」への信頼が語られている。
目指す方向は『ウェブ進化論』と同じで、一歩踏み出す勇気をもらえる本である。
ただし、著者自身書いているように、少々楽観的に過ぎるところも無いわけではない。
「楽観的な立場への危惧」は、この本の前作である『ウェブ人間論』(平野啓一郎との対談)で展開されている。
そこでの平野啓一郎の反論(というよりも疑問点か?)には、わたしも同意する論点もいくつかある(それについては次回にでも書く)。
ただ、そのような危険性を考慮しても、わたしにはウェブ世界の可能性の方に魅力を感じる。
面白かったところをいくつか引いておく。

ウェブ進化によって、知識を記憶していることの価値が相対化された。
知をひたすら溜め込み、知の隘路に入り込み知識の多寡を競うために、知は本来あるのではない。
知の意味とは、知を素材にそれを生きることに活かすことだ。

個人的に強く共感したところ。

私自身は子供の頃から、自分に向いたこと、自分が好きなことにはのめり込み徹底的にやるけれど、そうでないことはからっきしダメだった。興味が持てないことに対しては、力が全く出なかった。だから、好きで没頭していた「数学やコンピュータ」の勉強における、今ほど整備されてはいないが当時なりに存在していた「高速道路」を、大学院に入る頃までは走っていたつもりだった。


しかしあるとき、同じように高速道路を走っている自分の周囲の人たちを見渡してみて、「対象」(プログラミング)への愛情という面で、私は決定的に何かを欠いているということに気づいた。「没頭の度合い」がどうにも中途半端なのである。関心が様々な分野へと分散し、一つの専門に集中し没頭することができない自分を発見し、このままこの高速道路を走り続けてみても、どこにもたどりつけないのではないかと確信した瞬間があった。

「『没頭の度合いが中途半端』って、それは『自分が好きなことにのめり込んで徹底的にやっ』てないんじゃないの?」
即座にそんな反論がありそうだが、それとは少し意味合いが違う(いや、言葉の面というか、理屈ではもちろんこの反論は正しいのだが)。
上の引いたところで述べられていることは、
「一つのこと『だけ』に没頭してしまうのがつまらない」というか、
「ほかのいろいろな可能性や展開を制限してしまう」息苦しさや不安ではないだろうか。
そう思って、わたしも強く共感した。
もっとも、わたしの場合は単に飽きっぽいだけなのかもしれないが。


今後のアイデアとして、「文系のオープンソースの道具」について。

 「志向性の共同体」を実現するためには「文系のオープンソースの道具」が欲しい。オープンソース・プロジェクトの場合は「コミュニティの成果物」がソフトウェアという作品であり、コミュニティでソフトウェアを作るためのさまざまな道具立て(共同開発のためのツール群など)が揃っている。コミュニティの成果物が「構造化された知(文章や音声や解説映像など)」(作品)であるときに使える「文系のオープンソースの道具」の登場を期待したい。

実際、この「文系のオープンソースプロジェクト」は、
去年の5月、突発的に「『シリコンバレーから将棋を観る』翻訳プロジェクト」)として実現した(参考記事は こちら )。
翻訳プロジェクトとしては、もちろん、以前からわれらが山形浩生「プロジェクト杉田玄白」がある。
しかし、あれは「個々人の原稿の持ち寄りの場」としての性格が強く、「多人数の同時制作」という要素は少なかった。
その意味で、「自然発生的に」「多人数の同時制作プロジェクト」が実現したのは実に興味深いことだと思う。
これを、突発的な出来事で終わらさせずに、持続可能なプロジェクトにするのは可能なのか。
アカデミズムの人間ではないが、文化を愛する者として考えておきたいテーマである。


ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

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