『ニーチェを辿る』、樋口大介、泰流社、一九八五

たまに、ひどく抽象的な思考をして頭を酷使したくなるときがある。


そういうときにはニーチェは不向きな思想家だ。
おそらくそれはニーチェ自身が一貫した思索を行っていないから。
体あたりして解釈に臨んでも、手応えがえられにくい思想家だ。


一見すると著作はアフォリズム集の形式だったり、
エッセイや小説形式なので読みやすいが、
その反面、体系的に叙されていないために、
まず読者が自分で体系を編んでやらなくてはいけない。


そして、なんとか体系化しても、
字面通りに解釈すると矛盾点が続出。
初期・中期・後期と分けて思想の変遷を辿ったり、
遺稿を引っ張り出してテキストを補ったり、裏の意味を探ったり…。
だから、今のニーチェ研究は、
「正確に読み解く」というよりも、
半ば「どれだけ説得力のある解釈ができるか」というプレゼンの場になっている、というのが事実だ。


そんな中で、須藤訓任の『ニーチェ―〈永劫回帰〉という迷宮 』(講談社選書メチエ)は
すごく丁寧に遺稿を読み込み、面白い解釈を提示していて興味深かった。
でも、ぼくが惹かれるのは、
思想史の中の1事件としてニーチェの意味を考える、三島憲一のような研究。
つまり、ニーチェの思想そのものというよりも、
ニーチェに影響を与え、ニーチェが影響を与えた思想家たちの研究である。


いずれにせよ、中途半端はいけない。
ニーチェの遺稿などから都合のいいところだけを拾ってきて、
自分の思想を語らせる論文は最悪だ。
残念ながら、本書はこのような「中途半端な」研究書。
新しい観点、論点を得ることはできなかった。


面白かったのは次の2箇所だけ。

ドイツ語で「くすぐる者」Kitzlerという単語はクリトリスの意味である。

ソシュールは『一般言語学講義』で、リチェルの言語学を「死語だけを相手にしている言語学である」という辛辣なコメントを加えながらも、
19世紀における言語学の泰斗として一応の敬意を払っている。

ま、2つともどうでもいいことといえばどうでもいいことだけど。

ニーチェを辿る

ニーチェを辿る