たまに、ひどく抽象的な思考をして頭を酷使したくなるときがある。
そういうときにはニーチェは不向きな思想家だ。
おそらくそれはニーチェ自身が一貫した思索を行っていないから。
体あたりして解釈に臨んでも、手応えがえられにくい思想家だ。
一見すると著作はアフォリズム集の形式だったり、
エッセイや小説形式なので読みやすいが、
その反面、体系的に叙されていないために、
まず読者が自分で体系を編んでやらなくてはいけない。
そして、なんとか体系化しても、
字面通りに解釈すると矛盾点が続出。
初期・中期・後期と分けて思想の変遷を辿ったり、
遺稿を引っ張り出してテキストを補ったり、裏の意味を探ったり…。
だから、今のニーチェ研究は、
「正確に読み解く」というよりも、
半ば「どれだけ説得力のある解釈ができるか」というプレゼンの場になっている、というのが事実だ。
そんな中で、須藤訓任の『ニーチェ―〈永劫回帰〉という迷宮 』(講談社選書メチエ)は
すごく丁寧に遺稿を読み込み、面白い解釈を提示していて興味深かった。
でも、ぼくが惹かれるのは、
思想史の中の1事件としてニーチェの意味を考える、三島憲一のような研究。
つまり、ニーチェの思想そのものというよりも、
ニーチェに影響を与え、ニーチェが影響を与えた思想家たちの研究である。
いずれにせよ、中途半端はいけない。
ニーチェの遺稿などから都合のいいところだけを拾ってきて、
自分の思想を語らせる論文は最悪だ。
残念ながら、本書はこのような「中途半端な」研究書。
新しい観点、論点を得ることはできなかった。
面白かったのは次の2箇所だけ。
ドイツ語で「くすぐる者」Kitzlerという単語はクリトリスの意味である。
ソシュールは『一般言語学講義』で、リチェルの言語学を「死語だけを相手にしている言語学である」という辛辣なコメントを加えながらも、
19世紀における言語学の泰斗として一応の敬意を払っている。
ま、2つともどうでもいいことといえばどうでもいいことだけど。
- 作者: 樋口大介
- 出版社/メーカー: 泰流社
- 発売日: 1985/12
- メディア: 単行本
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