[book] 『ご臨終メディア』、森達也・森巣博、集英社新書、2005年

森達也の名前に引かれて手に取る。
題名どおり、メディア批判の対談。
主に、メディアに携わることの責任の重さ、
そしてこの責任に現在のメディアが無自覚なことに対する批判が述べられている。
森巣博が少々直情的で安易な論旨を述べるのが気になったが、メディアの歴史など、
勉強になったところは多かった。


森達也の本は色々読んだけど、書かれている内容が大体先読みできるようになってきた…。
まあ、一人の書き手を追い続ける、というのはそういうことなんだけど。


以下、勉強になったところを引いておく。

(森)
電波法と放送法、そして電波管理委員会の設置法が制定されたのは1950年です。
電波管理委員会をあっさりと廃止して、放送業界は郵政省の管理下に置かれ、
この護送船団方式が確立されました。
だからこそこの半世紀、放送業界では倒産もないし、M&Aや合併もないんです。
政府からは独立したFCC連邦通信委員会)が放送業界を管理するアメリカでは、
メディア王と呼称されるテッド・ターナールパート・マードック
(注:テレビ朝日を買収しようとした)を引き合いに出すまでもなく、
市場原理に晒された放送局の買収やM&Aはよくある光景です。

(森)
ドキュメンタリーと報道は、ジャンルとして結構セットで考えられることが多い。……
先ほども言ったように、報道は客観性や中立性を達成できないことは自覚しつつ、
標榜するジャンルだと僕は思ってます。
でもドキュメンタリーは逆で、主観を最大限に表出するジャンルなんです。

(森)
 視聴率調査会社は、かつては2社ありました。
ビデオリサーチとニールセン。
アメリカに本社があるニールセンが、日本に進出したのは1961年。
その翌年に、電通が3分の1を出資して設立されたのがビデオリサーチ。
社長は代々電通天下りです。
ところが2000年に、民放各局から契約を一方的に解除されたニールセンは、
やむなく日本から撤退して、視聴率調査はビデオリサーチの一社独占体制になりました。
 1955年の森永砒素ミルク中毒事件のとき、
電通がクライアントを守ろうと報道を完成しようとした話は有名です。

(森)
全体主義とは、構造的には無自覚な萎縮の集積です

【メディアが先か、民度が先か】
(森)
メディアと民度、どちらが先かというと、難しい問題です。
たとえば日本が戦争へと突き進んだ昭和初期、新聞が民意を戦意高揚へと誘ったかといえば、
そうとばかりは言い切れない。

当時のマスメディアといえば、朝日と東京日日(現在の毎日)新聞でした。
最初は二紙とも、日中戦争に対しては極めて抑制的でした。
ところがある時期から、在郷軍人会の不買運動などを契機に、日日が微妙に論調を変えた。
要するに戦争容認の気配を打ち出したんです。
途端に部数が跳ね上がった。
そこで朝日も、少しずつではあるけれど、路線を変えて、
それによって日日がまた少し過激になって、ということを繰り返して、
気がついたときは「肉弾三勇士」や「百人斬り」など、両紙とも翼賛報道一色になっていました。
これに平行して、軍部の統制や検閲が始まった。
 …新聞によって民意は刺激され、その高揚した民意に応えるべく、
新聞はさらにエスカレートするという循環構造にはまってしまった…

【法律の激変――1999年、小渕内閣時代】
有事ガイドライン関連法、国旗国家法、通信傍受法、改定住民基本台帳がひとつの国会であっさりと成立。
戦後の歴史における大きな転換期。
以前ならこの法案のどれかひとつだけでも国会審議は紛糾して解散していたはず。
さらに象徴的なのは、オウムの事件直後には棄却された破防法の適用が、団体規正法と名称変えただけで、
世論の圧倒的な支持を背景に、あっさりと成立してしまった。これも99年。
通信傍受法 → 個人情報保護法、 住民基本台帳 → 住基ネット
決して強制はしないと小渕首相が言明した国歌斉唱は、
都教委では起立しないというだけで懲罰が当たり前となってしまった。

【報道の責任】
ニューズウィーク」で「コーランをトイレに流した」との数行の記事が掲載されただけで、
アフガンやイラクで暴動が起き、何人もの人が死にました。
担当記者が辞めたとしても、それで責任が取りきれるはずがない。

民放では、ディレクターに該当するのは「構成」、ADは「取材」。

「祭日」とは、天皇陛下が宮中で祭事(まつりごと)を行う日を指す。
秋季皇霊祭は「秋分の日」、新嘗祭は「勤労感謝の日」。

自主規制ワード。
精神障害者」「アボリジニ」は○、「精神病者」、「○○屋」「アボー」は×。

「ハゲワシと少女」の写真。
飢えで倒れた少女を襲おうとしているハゲワシ。
カメラマン、ケビン・カーターはこの写真でピュリッツァー賞を受賞したが、
その後、「なんで少女を助けないのか」という批判や抗議が高まり、自殺してしまった。