「メッセージ・ソング」(2),PIZZICATO FIVE(小西康陽)

以下、先日の返事を。


> にわとりさん
本当に仰るとおり。
以前は、どんな形のものであれ「愛」を重く感じていて
色々なものからなるべく距離をとろうと考えていたのですが、
最近になって少しずつ色々なものに
ほのかな愛情を抱き始めています(まわりくどい表現ですね)。


>タケさん
うーん…言われてみると、確かに、この歌詞だけ読んでみると
「心情暴露」と「心象風景」を垂れ流しただけにみえますね。
ぼくがこの曲を聴くたびにめまいをおぼえるのは、
音楽があってこそのことだと思います。
以前書いたくるりの「ハイウェイ」でも、
歌詞だけ読むと品がなくてまったく魅力的でないのですが、
岸田繁にシンプルなロックで淡々と歌われると一気に魅力倍増。
品のなさや言葉の拙さも、
「自分のナイーヴさを恥じながらも
それを取り繕うこともまた恥ずかしくてできず、
ある種の逡巡と諦念の末にナイーヴさをそのままさらけ出す美学」
のように聞こえてくるではありませんか。
これと同じで、「メッセージ・ソング」のこの歌詞も、
あのアレンジで歌われると強烈なリアリティでぼくに迫ってくるのです。
特に、うるさいギターのリフや、歌が終わっても延々と続くエレピのソロが
非常に効果的で、

とにかく何か言いたいことがあってイライラしてるんだけど、
諸事情や自分の美学のためにこんな詩的な表現でしか伝えられない!

という、パンキッシュな心の叫びが聞こえてくるのです。


その意味で、タケさんの質問には、
「音楽と歌詞が調和していたから」とお答えします。
だから、分類も[words]ではなくて[words][music]にしたほうがよかったかもしれませんね。
でも、だからといってこの曲がインストで演奏されるとあまり面白くないんじゃないかな、とも思うのです。
ベースラインこそファンキーだけど、音楽的には単純な8ビートのロックですしね。
付け加えると、別な分野ですが映画だと、ぼくは押井守は好きなんですが、
あの病的な衒学趣味のモノローグも、計算された映像があってこそ、
という気もしてます。


> daisyさん
歌詞に限らず、何でもそうだと思うけど、
作品は、創り手の意図通り解釈されなくたって全然問題ない。
でも、意図を知ると作品について理解が深まるのも事実ですよね。


この曲(に限らず、小西康陽ワークス)がグッとくるのは、
単なる心情の吐露に終わらず、
恐ろしく強力に客観的な視点が支配しているからだと思います。
「メッセージ・ソング」でいうと、
情念に満ちたギターやエレピに対して、
冷静になれと自分に言い聞かせているようなブラスのバッキングのような。
「ピチカートなんて昔の音楽の切り貼りだけじゃないか!」
なんて悪口も聞くけど、
小西康陽の編集能力はもはやひとつの才能だよね。
いまさら、なコメントですが。


そうそう、1枚丸々聴くとその圧倒的な物語性に疲れきってしまう、
PIZZICATO FIVE JPN』で、
この「メッセージ・ソング」は絶妙なところに配置されてるよね(#8)。
#1からのアゲアゲな流れがこの「メッセージ・ソング」で小休止するので、
ちょうどレコードのA面が終わったかのような印象を受ける。
ちょうど前の曲が「スーパースター」だから、
「メッセージ・ソング」のイントロのギターは、
「髪が長くて無口な恋人」が「不機嫌そうに黙って弾いて」いるように聞こえるんだよね。
で、B面は#9の「アイスクリーム・メルティン・メロウ」から。


できすぎです。

PIZZICATO FIVE JPN

PIZZICATO FIVE JPN