『マイルス・アンド・ミー』、クインシー・トループ、河出書房新社

ずっと前にセルゲイが薦めてくれた本。
やはりずっと前に読んでまとめておいたメモをあげておく。
この本はいってみればクインシー・トループの
「マイルスとの思い出」本だけど、
ゴシップ的な内容もあり、音楽的な内容もありと
切り口が多彩で興味深く読んだ。
その反面、少々雑多でまとまりがないともいえるけど、
途中で飽きずに読み物として楽しむことができるのは、
著者の編集能力(どの挿話をどの順に紹介するか)と、
本書に通底するマイルスへの敬意のおかげだろう。


あと、いまさらだけど、

オレにとって、音楽はスタイルだ。

とか、

孤独が創造には必要だ。

というマイルスの言葉はやっぱりカッコいいな。

マイルスの故郷はイースト・セントルイスであり、
そこの仲間からはいつまでもマイルスは「Little Davis」であり、
「Jr.」であり、「Dewy」、「buckwheat(ソバの実)」だった。
ちなみに、「buckwheat」とは、
彼の肌の黒さを当てつけた、マイルスが嫌悪したニックネーム。

1982年…『スター・ピープル』発表。
ビル・コスビーの自宅(マサチューセッツ)で、
女優のシシリー・タイスンと結婚。
1984年には『デコイ』、1985年には『You’re Under Arrest』。
シシリーはマイルスを酒やドラッグから立ち直らせた。
彼女と別れたあと、
ユダヤ人女性、ジョー・ゲルバートと交際を始める。
彫刻家、画家、宝石デザイナーの肩書きを持つ彼女は
マイルスに絵の才能の自信を与え、
以後、マイルスは本格的に絵を描きはじめるようになる。

マイルスは三頭の馬を所有していた。
それぞれ、カラ、カインド・オブ・ブルー、ジェミニ
ジェミニはマイルスの星座にちなんで名付けられた。

1986年『ツツ』。
ノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国聖公会大主教
タイトルはデズモンド・ツツにちなんで付けられた。
ワーナー移籍第一弾作品で、
ジェイソン・マイルスをプログラマーとして起用。
PVの監督はスパイク・リー

1988年。
リード・ベース…フォーリー、ドラム…リッキー・ウェルマン。
前任のヴィンセント・ウィルバーンはマイルスの甥で、
更迭に関しては姉のドロシーと揉めた。
マイルスにとってつらい決断だった。

1988年11月13日、
スペインのアルハンブラ宮殿マルタ騎士団の一員に任命された。
しかし、年末に気管支肺炎を患い、病床につく。
ゴシップ紙『スター』はマイルスのエイズを報じる。
マイルス自身はこれを否定。
ただし、状況証拠は「クロ」を示しているといえるかもしれない。
服用している「AZT」はエイズの治療薬だし、
感染していたウィルスを一掃するために全血液の交換を行った。
また、かつてのヘアー・ドレッサー、
ジェイムズ・フィニー(エイズで死亡)や
トニー・ウィリアムスとの仲も噂された。

最後の意識不明の重体のとき、クラーク・テリーが訪れ、
意識不明なのにその声を聞くたびに左手を動かす。

『ビッチェズ・ブリュー』への反応。
「ジャズ史上もっとも見事な背信行為」と述べ、
スタンリー・クロウチはマイルスを裏切り者扱い。
大のマイルス・ファン、レナード・フェザーもダメ。
もっともレナード・フェザーは
コルトレーンの参加も当時は理解できなかった。

クインシー・トループが、
「ズーク」というカリブ音楽を演奏する、パリを拠点とする
西インド諸島出身のバンド、「カッサヴ」をマイルスに聞かせて、
そのリズムは『アマンドラ』に収録されることとなった。

セントルイスイースト・セントルイスは、
昔もいまもトランペットの町だ。
さまざまなマーチング・ドラムが鳴りわたり、
多くのビューグル・コール・バンドが存在する。
それはドイツ人が祖国からセントルイスにもちこんだ伝統だった。
だが、私は白人のマーチング・ドラムや
ビューグル・コール・バンドをみた記憶がない。


そのドイツの伝統に独創性を加え、
ほぼ芸術の域にまで到達させたのは、
セントルイスイースト・セントルイス
黒人のマーチング・バンドだった。
演奏しながら足を高く上げ、
ビューグルを左右に動かせて行進するスタイルは、
黒人が編み出したものだった。
(エルクス慈善保護会や
 フリーメーソンなどの団体の支部の後援を受けていた)
 

そうしたバンドがビューグルの演奏スタイルを発展させ、
後にセントルイスの「ランニング・スタイル」として
知れわたるコルネットとトランペットに伝承された。
「ランニング・スタイル」は、
エディ・ランドール、レヴィ・マディスン、ショーティー・ベイカー、
クラーク・テリーらに開拓され、
少年時代にイースト・セントルイス
いくつかのマーチング・バンドで
演奏していたマイルスによって完成された。


それは、軽やかに連続して吹き、
いわば早口でまくしたてるようなスタイルでくり出されるノート、
コードやメロディが特徴をなしている。
現在ではセントルイス出身のトランペッター、
レスター・ボウイがこのスタイルの典型といえる。
クールで繊細、会話をするかのようなスタイル。


それに対し、ニューオリンズはhotで大きな音を出し、
騒々しい演奏スタイルといえる。
バディ・ボールデン、ルイ・アームストロング、アル・ハート、
ウィントン・マルサリス、ニコラス・ペイトン、
テレンス・ブランチャードなどがそのスタイル。


そうしたスタイルの相違は、文化の相違から生まれた。
ニュー・オリンズは活気にあふれた海辺の町で、
その文化はフランス、スペイン、アフリカ、
ネイティヴ・アメリカンの大きな影響を受けている。
たとえば、マルディグラコンゴ広場、アフリカン・リング・ダンス、
ヴードゥー・クイーン、マリー・ラヴュー、
アフリカン・ドラミング、ケイジャン・フィドリング、
クリオール料理というように。
この「弦月の市」と呼ばれる町の文化は、
ジャンバラヤやガンボの大鍋料理のような「ごった煮」である。


セントルイスは、フランス人によって建設され、
ドイツの支配下にあった。
たしかにフランス、イタリア、ハンガリーネイティヴ・アメリカン
ユダヤ人、アフリカン・アメリカンの影響はあったものの、
その文化はドイツ的色彩を濃くする。
カトリックの信者よりもカルヴァン派の信者が多く、
マルディグラよりもマーチング・バンドが盛んな、
感情を表に出すことが見苦しく下品な行為とみなされる文化だ。


そうしてセントルイスの黒人の間で発展した音楽文化は、
ニューオリンズよりはるかに抑制され、
はるかにクールなアプローチを取ることとなった。
ニューオリンズに対して、セントルイスはチトリンズ(内蔵の料理)、
バーベキュー、マッシュポテト、グレーヴィーソースである。


マイルスがそのクールな音楽環境の中で育ったことは、
彼の音楽に対するアプローチと彼自身に反映されている。

ちなみに、訳・中山啓子、監修・中山康樹

マイルス・アンド・ミー―帝王の素顔

マイルス・アンド・ミー―帝王の素顔