最相葉月の『絶対音感』でも大々的に取り上げられていた、
「江口式絶対音感プログラム」の関連本。
作者の江口彩子は名前からわかるようにこのプログラムの提唱者で、
サブタイトルが「ピアノレッスンを変える?」とあるように、
この本は副教材・ガイドブック的な位置付けの本のようだ。
この本を手にとったのは古本屋で100円コーナーで売られていたからで、
特に絶対音感やその教育法に興味があったわけではない。
そんなスタンスでも興味深く読めたところは何ヶ所かあった。
音の高さには「2要因」がある。
「ハイト(tone height)」 … 音の周波数の高さに対応した高さのこと
「クロマ(tone chroma)」 … 音調性。オクターブごとに繰り返される音色の違い。
即ち、ドにはドの、レにはレのクロマがある。
絶対音感を身に付けるためには単音でなく和音で練習しなくてはいけない。
∵ 単音で練習すると、音を「クロマ」でなく「ハイト」で判断する傾向が身についてしまう。
そのため、「ハイト」は似ているが、「クロマ」は異なる状態で練習する必要があるが、
和音での練習はそれに最適である。
「ドミソ−赤」、「ドファラ−黄」など、和音は色で覚える。
∵ 音名で覚えると、音名の情報をヒントに「ハイト」で音を判断してしまうから。
9歳以上では絶対音感を身に付けるのは無理。
などなど。
Q&A形式で易しくかかれているものの、
かなり理論的・実践的に体系化されている印象を受けた。
このプログラム自体への疑問は特になく、勉強になったものの、
「絶対音感神話」へのぼくの根本的な疑問は残ったままだ。
…そんなに絶対音感って必要なものかなあ?
これは江口式に文句を言っているわけではない。
むしろ、絶対音感を身に付けたらこの江口式プログラムをやめて、
別のピアノスクールに子どもを通わせる親たちへの疑問だ。
いい音楽家に育てたいなら、いい本を読んだり、自然と触れ合ったり、
いい音楽を聴く方がよっぽど栄養になると思うのだけど。
…まあ、これは理想論なのかな。
ぼく自身に絶対音感はないので何とも言えない。
あれば便利な能力であることは間違いないと思う。
ただ、著者自身、これには反論を述べている。
「『絶対音感』があるとかえって不便だ」とする主張には、
「『絶対音感』があると、音のわずかな狂いが気になって
不快になるという意見があります。
この意見は、視力のとてもよい人が、
「見えすぎると、部屋の中のゴミやほこりが
よく見えてしまって不快になるから、視力は悪いほうがよい」
と言っているのと似ていて、当っているようでいて、
どこかおかしな意見なのです。
うーん、この反論もどこかおかしいと思うよ。
というのも、最相葉月の『絶対音感』にもあったけど、
絶対音感があると、「音楽が音楽として聞こえない」ことに
不快感を感じてしまうんじゃないかな。
さらには、音楽の一部でない日常的な音まで
全部ドレミファで聞こえてしまうことが
不快なのだと思う。
確か菅野ようこもプライベートの家の中では一切音楽を聴かないといってたけど、
それはこのことと無関係じゃないんじゃないかな。
こうなるともはや「音楽」の定義の話のような気がするけど、
この著者の反論だけではまだ言葉足らずな気がする。
この本を読んで絶対音感について改めて興味が湧いたので、
遅ればせながら最相葉月の『絶対音感』を手にとることになった。
で、この本が非常に面白かったのだけど、それはまた後日に書くことにする。