『親指Pの修行時代』、松浦理英子、河出文庫

ペニスに対して、そして男根主義的なものに対して
かなり意識的に書かれた小説。


題名のPはずばりペニス。
ある夕暮れ、午睡から目覚めると、右足の親指がペニスになっていた――。
センセーショナルな設定なだけあって、一時期話題になった小説。
その当時、ぼくは無意味にとんがっていたので、
売れてるもの・話題になったものは読もうとしなかった。
それに、話題集め的な設定への嫌悪もあって手にとらなかったんだけど、
いま読んでみると、予想に反して楽しめた。


右足の親指がペニスになるのは女性で、
その意味でこの物語が男根をめぐる象徴的な話なのはミエミエ。
作者自身も文庫あとがきで書いている。

この親指ペニスについては、男根的なペニスを書く気は、
私には全くありませんでした。
男根主義という見かたで、何かと昨今悪者にされがちなペニスを、
本来無垢な器官として備わっていたはずの生まれたままの者に戻してやる、
という気持ちがあったわけです。

そして、この親指ペニスは物語中、他人に対して能動的に使うことはなくて、
受動的に使われることが多く、
その意味でこれはクリトリスを象徴してもいるのだそうだ。
内容・構造的にもこれは「ペニス小説」というよりも
クリトリス小説」というべきで、
これはこれまでほとんど書かれたことはなかった、とも。
「ヴァギナ小説」はあったかもしれないが、
ヴァギナはペニスと対になっている器官で、
しかも「ペニスを受け入れる」受動的な器官であるため、
どうしても男根的な構造から自由ではない。
また、ニーチェが看破したように、
真実を探求する動きはいわゆる男根中心主義であり、
性器中心主義を批判するにあたっては当然批判しなければならない。
そこで、この『親指P〜』は謎が解決せず、
謎は謎のままでだらだらと筋が進行していく形式を採用しているそうだ。


とにかく、物理的にも、精神的にも
男根主義的なもの」について意識的に書かれた小説。
確かに、男根的なものにはぼくも苦しめられる。
しかし、それは「支配―被支配」の象徴として、でなく、
肉欲の源として、だけど。
ときに暴力的なまでの欲望の源であるこの器官、
なければ随分ラクだろうな、とよく思う。
いつになったら性欲がなくなるのだろうか、とも。


ただ、性欲がなくなったら、
恐らくその代価として多くのものを失うのだろう。
特に、音楽のファンクネスをまったく理解できなくなりそうで怖い。


結局、性欲とはいったい何なのか。
批評の世界で精神分析がしぶとく生き残ってるのもわかるよ。
いまだに反省なしになんでも分析できるとする身振りには閉口だけどさ。

親指Pの修業時代〈上〉 (河出文庫)

親指Pの修業時代〈上〉 (河出文庫)

親指Pの修業時代〈下〉 (河出文庫)

親指Pの修業時代〈下〉 (河出文庫)