『運命の力』、フジ子・ヘミング、阪急コミュニケーションズ

言葉は力をもっている。
昔の人はこれを言霊と呼んだが、
フジ子・ヘミングのこの本はこの力に満ちている。

フジ子・ヘミングを好きになったのは『ざわざわ下北沢』を観てから。
それまでは、『シャイン』のような感動系のピアニストかな、と思って
それほど興味はなかったのだが、
この映画でのフジ子さんの存在感は凄かった。
恐らくほとんど演技はせず、
ただヒロインと話をし、ピアノを弾いているだけで、
いわば彼女の日常生活を撮影しているだけなのが、
これまでの彼女の人生や、
人間としての器の大きさが充分すぎるほど伝わってくる。
この映画自体いい作品で、ぼくの好きなフィルムなんだけど、
フジ子さんが出てるところだけはまるで別の作品のように感じられた。


その流れでこのエッセイも購入したけど、実はあまり期待してなかった。
むしろ、その大変な人生を前面に出した
「売らんかな」の本だったらいやだな、と思ってたくらい。*1
しかしその思いは完全に否定された。


あまりにも無防備に綴られる言葉に、ぼくは文字通り打ちのめされた。

やっと一流のピアニストとして認められる証となるはずだった、
リサイタルの直前に風邪を引いた。
16歳の時に中耳炎をこじらせて、右耳の聴力を既に失ってしまっていた。
この風邪がもとで、左の耳もまったく聞こえなくなってしまった。
悪い夢を見ていると自分を疑った。
この世には悪魔がいるんじゃないかって。


それからの日々は、失意のどん底
絶望……、もう絶対に私はこの世で有名にもならないだろうし、
ピアニストとしては駄目だろう、と思った。
この世は自分のためにあるのではないと思った。


他の女性ピアニストが華々しく活躍するのを、あきらめの心境で眺めていた。
私はまったく孤立していて、無名で。
とにかく毎日毎日お金の心配ばかりして、
明日どうやって生きていけるか、そっちの方が重要なことだった。

純粋に生きた芸術家はみんな悲惨な人生をたどっている。
モーツァルトゴッホも。
モジリアニの写真を雑誌から切り抜いて、いつも眺めては
「ああ、彼みたいな偉大な人も、あんなふうにして死んでいったんだ」
と、思っていた。

ベルリン在学中の頃。
ほかのピアニストの演奏をたくさん聴いて感激したり、うんざりした。
正直言って、ロシアで世界最高と騒がれているような人の演奏でも、
聴くとイライラした。
それを聴いたら、下手になっちゃうような気がして。
私のピアノは、昔から最高だと思っていたわ。
笑われるから人には言わなかったけれど。

いつもこの先のお金のことを心配していた。
今のように、お金のことを考えずに、
暮らせる日がくるとは思ってもみなかった。

有名になって変わったことは、経済的に余裕ができたこと。
猫や犬を救うことができるようになったのが、いちばんうれしい。
昔は餌を買うお金にも困っていた。
私自身お金がなくて、一週間、砂糖水だけで過ごした時もあった。

ピアニストは綺麗な手をしている人が多い。
手をとても大事にしているから。
私の手はゴツゴツとして綺麗じゃない。
生きるために労働した手だから、綺麗じゃない。
いろんなことをやった。
猫のオムツまで洗濯をしたし。

「人生の艱難辛苦から逃れる道はふたつある。音楽と猫だ。」
これはドイツの偉人アルベルト・シュバイツァーの言葉。
彼は神学の人であり、音楽家であり、哲学家にして医学の人。
あんなに美男子で、あんなに有名で、
お金も持っている人でも不幸せだったと、わかった。
不幸せを慰めるのが、「酒と女」と言ったらがっかりするけれど。

自分の才能への揺るぎない自負と名声への憧れ。
それと同居する現状への諦めと絶望。
こうした内面が、淡々と、ときにぎこちなく語られる。
人間なら誰しももつ黒い情念と、少女のような感性でもって、
これらを虚飾なく話す語り口は、
真摯に生きてきた芸術家のそれ。
ぼくは、『レッツ・ゲット・ロスト』のチェット・ベイカーを思い出した。

何気なく買った一冊だけど、大当たりでした。
フジ子さんの音をもっと聴きたいと思った。


フジ子・ヘミング 運命の力

フジ子・ヘミング 運命の力

*1:いい加減、こういうひねた考え方はやめたいとは思ってるんだけど……人はなかなか変わらないものです。