『ダンテ・クラブ』、マシュー・パール、新潮社、2003

われらの人生の旅路半ばにして、われ正しき道を見失い、
気づけば暗き森の中にありき

この言葉は、
「一切の希望を捨てよ、我門を過ぎるものよ!」*1と並んで有名な、
ダンテの『新曲』の冒頭だが、
日本人にはこの一節は特別な意味を持つ。
というのも、冒頭のこの文句は、
「酒樹薔薇聖斗」を名乗った神戸連続児童殺傷事件の犯人(当時14歳)が
「懲役13年」と題する作文で引用しているからだ。
*2
この「少年」と彼が起こした事件についてのルポ、
『暗い森 神戸連続児童殺傷事件』(朝日文庫朝日新聞大阪社会部)も
実に興味深い本なのだが、それはまたいずれ。
今日は、『新曲』のうんちくミステリー、『ダンテ・クラブ』についてだ。


舞台は19世紀アメリカ。
少しでも文学・哲学をかじった人間には常識だが、
アメリカはアカデミックな文脈でいえば
非常に「幼い」文化しかもっていない。
誤解を恐れずにいえば、歴史的に浅い国だ。*3
アメリカという新しい国の「諸文化の『受容/排除』」というテーマは
政治的・学問的に興味ある問題だが、
この小説はこの問題を基盤に成立しており、それが成功している幸福な例だ。


当時のアメリカでは、
ダンテの『新曲』は極めてカトリック的な書物として忌避されていた。
なぜなら、アメリカはプロテスタントの国だからだ。
だが、そんな中でこの『新曲』を翻訳しようとする知識人がいた。
それが本作の主人公のハーヴァードの学者連で、
彼らは翻訳の困難とともに
そのような宗教的な傾向にも立ち向かわなければならなかった。
だが、彼らが陥る真の窮地は、
この『新曲』に描かれているのと同様の方法の連続殺人が起きることだ。
当時、『新曲』はある種「禁書」扱いであり、
その内容はアメリカでは彼らくらいしか知らない。
このままでは、彼らが連続殺人の犯人とされるのは当然だ。
一体彼ら以外の誰が、『新曲』の地獄篇にあるような苦しみを与える方法で
殺人を行うことができるのか………!?


以上がこの小説の概観。
はっきりいって、この設定だけで面白い。
ハーヴァードは典型的なプロテスタントの大学ってのもいい設定なんだよなあ。
*4
読み終わった後も満足。
エーコの『薔薇の名前』以降、うんちくミステリーはたくさん生産されたけど、
その中でも光る作品だと思う。
じゃあ、なんでこの小説はベストセラーにならなかったかって?
この年は、同じ学術的うんちくミステリー、
ダ・ヴィンチ・コード』があったからです。
業界的には豊作なんだろうけど、マシュー・パールには不運だったね。

以下、いつも通り面白かったところを。

ダンテは三韻句法(テルツア・リーマ)で詩行を配列していた。
詩行は全て三行一組。一行目と三行目が韻を踏み、
二行目が次の一行目に韻を投じることで、
詩行が前のめりに前進運動をするようになっている。

ロングフェローがこの数年ダンテに引きこもり、
自作の詩をほとんど書かなくなった理由が、
ローウェルにはよくわかる気がした。
自分の言葉を書いていたら、
彼女の名を書きたいという誘惑を抑えきれなくなるし、
書いてしまったら彼女が単なる言葉になってしまうからだ。

オデュッセウスは「権謀術数をこととするもの」の中にいて
肉体の無い炎として存在している。

ダンテは、ベアトリーチェをはじめて目にしたのは9歳のときで、
実は彼女とはたった一度しか言葉を交わしていない―
―「こんにちは」と。
また、彼にはドンナ・ジェンマという妻がいたが、
彼女のことはほとんどわかっていない。

ダンテは24歳のときに教皇党(ゲルフ)として戦ったが、
敵対する皇帝党(ギベリン)ではなく、
ゲルフ内部の分裂によってフィレンツェから追放された。

ダンテ・クラブ

ダンテ・クラブ

*1:いうまでもなく、ケルベロスが守る地獄の門に刻まれている文句

*2:「少年」の引用は、「俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」。

*3:もちろん、ネイティブ・アメリカンの文化は除く。

*4:アイルランド人への差別には、アイルランドカトリックということもある。ミッキー・マウスを生み出したのはウォルト・ディズニーだけど、実は彼もアイルランド人。それまで、「ミッキー」というのはアイルランド人を馬鹿にする際の代表的な名前だった……って、あんまり関係ないか、この話。