『ランド・オブ・ザ・デッド』(5)

t:
映画がオモシロイと言うのは、
内容に社会、文化、政治やそれらの歴史が反映されているからとか、
隠喩的な証言が上手に何かを風刺もしくは評価しているからとか、
撮影手法自体が作品に対して自覚的に意図を持って仕組まれているとか、
そういったことを意味して言うんじゃないんだな、僕の場合は。
もっとストーリーに対して無邪気に言っています。


A:
うん。


t:
けどこの無邪気というのがくせ者で、無頓着というのとは全く違う。


もちろん上に挙げたもろもろの試みがある(と思われた)場合、
それが「観る者に対して成功しているかどうか」は
大いに気になるところなのだけど
(そして、ここが君との違いでもあるのだけど)、
そのもろもろが、試みられているかどうかは全く気にならない。
なぜなら、よく言っているように、
何も表象してない(させない)映画なんてないから。
意図的かどうかは別だけど、探せばいくらでもある。
庵野某はキリスト教も日本の神話もほとんど知らなかったわけでしょ。


A:
うーん……まあいいや、続けて。


t:
多くの映画は、狙うところが興行収入である以上、
試みというのは観客の反響を如何に大きくするかになるわけで、
事実ハリウッドの試写は、
単に試写観客の反応の悪いところを全てカットして、再編集してる。
けどこういうドンパチ映画でもなにかしらあるでしょ、どうせ。
だから気にしない。
おもしろいところがあればあればでそれでいい。


A:
随分享楽的だな。むしろ、そういうドンパチ映画でもなにかしらある、
意図されている・いないに関わらずに埋もれている
文化的要素を掘り出していくのがぼくは楽しいんだが。


t:
とりあえず続けさせてくれ。
例えば、なんでもいいんだけど、
殺人の追憶』には、韓国の軍事政権から文民統制を経て
現代の米国よりの社会――結局どっちつかずか――に至る過程と
そういった変化に対する市民の不安が、
上手く映像とストーリーに表現されている。
けどこれと、それをオモシロイと思うというのは、
必ずしも一致しないように僕は思うから。
どこかしらに、狡猾さや嫌らしさやダサさや、
とりわけ説教臭さを感じたらもうオモシロクなくなっちゃうの。
つまり僕にとってオモシロイというのは評価ではなくて、
感情の表現なんですよ。
でそれが、評価を含んでいる時もあるし、いない時もある、
というのはもともと評価しようと思ってないから。
これがいけないんだな、多分。
それが無邪気ということ。


A:
まあ、よく言えば無邪気。
しかし、感覚的というか、印象批評だな。
客観的な批評というものが存在するのかわからないけど。
ぼくだって結構映画を好き嫌いで判断してるぜ。
ハーヴェイ・カイテルが出てればそれだけで満足だったり。


t:
もちろん俳優の好き嫌いが作品全体への印象に
一番大きく左右することもある。
なにかの印象を大事にすること、これが無頓着との違い。
とにかく自分の感覚がok good と言ってるか、
terrible, fuckと言ってるかに集中させる。
評価と言っちゃ評価になるのかな。
ま、印象です。
で、『ランド〜』はその意味でオモシロかった。
解説的なインタビューにみられる監督の意図を越えて、
911以降の日本の立場さえどこかに映し出されてるとも見える。
しかしそんな解説抜きでもオモシロイ。
理由がどこにあるのかよくわかんないけど、
「Aアルジェントの体」「演出」「映像全体」
「形状のこだわり」「ストーリー」、すべてよし。


………「そう囁くのよ、私のゴーストが」。


A:
! 
……さんざん引っ張っといて、オチはそれかよ!


ええと、ぼくとしてはそこで理由を探してほしいんだけどな、
完全に客観的な批評なんてあるわけないんだし。
でも、君のいいところは批評家ぶらずに、
受け手として作品を楽しんでるところだと思う。
世に、映画についてエラソーなこという奴がいかに多いことか……
もちろん、ぼくもその内の1人だけどさ。


t:
君の好きな四方田犬彦は?


A:
四方田犬彦は「映画評論家」じゃなくて「映画史家」だからね。
この肩書きから、「映画について語ること」について
自覚的だといえるんじゃないかな。


t:
逆にコンテクストだけでしか映画がみれなくなっちゃいそうな…。


A:
その危険はある。
コンテクストで観る方法って、一度覚えると本当に面白いからね。


t:
じゃあ、やっぱりゾンビはただのモンスターってことで。


A:
そうなっちゃうの?
ロメロも泣くぜ……。
                      (やっと終わり)