『国家の品格』(2)、藤原正彦、新潮新書、2005年

藤原正彦の『国家の品格』へのぼくの腹立ちはまだ収まらない。
近所の書店ではこの本がまだ平積みになってるから、
まだ売れているのだろう。
自分の家に置いていたくないので、今後繰り返し批判できるように
もう一度チェックしてから売ろうと思って読み返してみたら、
いい意味でも悪い意味でも新たな発見があった。
今日はそれについて書いておこう。


藤原正彦は、
「情緒」「形」を
「ともに日本人を特徴付けるもので、国柄ともいうべきもの」
なんていう風に定義してて、
この二つはきちんと上から教育しなければどんどん失われていく、
と述べる。
で、現在進行中のグローバル化とは、世界を均質にするものであり、
こうした「情緒」「形」を破壊していく、とグローバル化を否定する。


「情緒」「形」が大事なものであることには、ぼくも反論はない。
ぼくは日本人で、日本的なものは大好きだ。
だからといって、日本の文化が他国の文化に優っているとは考えない。
日本には日本の、他国には他国の文化の優れたところがあると考えている。


しかし、こういった固有の文化を尊重することと、
グローバル化を対立させるのはあまりにも軽率で、
中学生の学級会のレベルを超えるものではない。
こういうことを言う人間に限って、
思いっきりグローバル化の恩恵を受けている。
グローバル化がいけない、なんて言ってるけど、
インフラやインターネットなどはグローバル化の賜物であり、
世界を均質化することによって世界共通の便利性が実現したのだ。
藤原正彦グローバル化のこのような成果も否定するのだろうか。
恐らく、「精神的なグローバル化」と「文明的なグローバル化」は違う、
と反論するだろうけど、それならそう書くべきだ。
あのままではあまりにも粗雑でミスリーディングだ。


また、

わが国は差別に対して惻隠、
即ち弱者・敗者・虐げられたものへの思いやりをもって応じてきた。
弱肉強食、市場原理。武士道原理があればそんなことはしない。

なんて書いてるけど、これはとても正気とは思えない。
共産党が読んだら泡吹いて倒れるよ。
「惻隠の情」、「武士道原理」が建前のもので、
実際のところいかに巧妙な差別のシステムが完成していたか、
なんて宮崎駿だって知ってるぞ。


それと、市場原理の批判について。
同じように主張する論者は多いけど、これもぼくは賛成できない。
ビジネスは皆同じルールで行わなければならない。
ルールという原理が共通である以上、文句は言えないはずだ。
スポーツで考えればわかりやすいけど、
ルールの範囲内なら何をしたっていいし、
それで弱肉強食だ、なんてことを言うアホな人はいないだろう。
第一、日本だってこの市場原理で70年代・80年代は大勝ちしたのだ。
それに、経済の世界はスポーツよりもルールを変えるのがもっと柔軟だ。
税法なんて毎年変わってるし、変えようと思えば国会を通して
「小さい政府」や「大きい政府」など国民の意思を反映させることができる。
ルールを補正するシステムは備わっているのだ。
それが国民の意思を性格に反映させているかどうかは
疑問が残るかもしれないけど、それは別の話だ。


もう少し書きたいんだけど、長くなったから明日続きを書く。

国家の品格 (新潮新書)

国家の品格 (新潮新書)