「映画史とは」(四方田犬彦)

これから書かれるべきであろう映画史は名作の歴史であってはならないし、
特権的な監督の思想やイデオロギー
あるいは技法の妙の歴史であってもならない。
かといって、映画を単純に政治や社会状況に従属させて
区別分類するものであってもならない。
映画を構成している複数の層を同時に見据えたうえで、
映画が自らの身体をどのように認識するに至ったか
と語る歴史でなければならない。


繰り返していうが、歴史とは単なる過去の事実の蒐集ではない。
またそれは、現実に存在する矛盾や衝突を都合よく隠蔽して
秩序の制定に向かうといった、
反動的な造話作用のことでもない。
歴史に意味があるとすれば、
それは現在に向けられた眼差しから自動化された認識を引き剥がし、
それをまったき新鮮な視線のもとに蘇生させるところにある。
現在を異化する権能の宿る場所としての過去こそ、
歴史的探求の赴くところであろう。


映画史が今後向かおうとする地点に立って、
この誕生後わずかに一世紀しか経っていない
光学装置の今日的あり方そのものを異化効果のもとに
眺めることができるようになれば、
映画史はその目的の半ばをはたしたことになるのであろう。

四方田犬彦、『映画史への招待』より。
実に濃密な文章だ。
ぼくはこの本、特に上に引いたところを読んで、
映画の見方が変わった。
上の文章は、四方田氏のマニフェストでもある。
氏の批評のスタンスは、ある作品を正面から評価するだけでなく、
その時代背景、文化背景も視野に入れて眺め直し、
その作品に伏流する水脈を指摘する。
それは、一面的な評価や底の浅い印象批評、
反省度ゼロの教条主義と真っ向から対立するものだ。

また別の本より。

……日本統治下の朝鮮では、
しばしば弁士が官憲の隙をぬって民族主義的な言説を垂れ、
居合わせた観客たちに抗日を訴えかけるという事態があった。
アリラン」の一曲を最後に合唱したいためだけに、
朝鮮人たちは団成社(ソウルの一番館)に何回も足を運んだという。


世界の映画史は、じつはこうしたエピソードから書かれるべきだ。
だが、映画の歴史よりもさらに重要なのは、
映画を観てきた人々の歴史、映画の観られ方の歴史である。
日本の今日の映画ジャーナリズムのなかで、
それはどのようにすれば可能なのだろうか。
(『心ときめかす』)

新年の言葉として、上の2つの言葉を引いておく。


映画史への招待

映画史への招待

心ときめかす

心ときめかす