『コンピュータのきもち』、山形浩生(2)「著作権について」

前回の続き。
著作権について、知的財産の説明から始まる。

知的財産というものを考えるにあたって、
絶対におさえておくべき基礎がある。
それは、知的財産というのが基本は人類全体の財産だということだ。
知的財産、つまり情報はいくらでもコピーできて、
いろんな人が同時に使える。
ぼくの知っていることをあなたに教えても、ぼくの知識は減らない。
そしてぼくが知っていることをあなたに教えれば、
あなたとぼくとが同時にその知識を使っていろんなものを生産できる。
その知識を知っている人が多ければ多いほど、生産できるものは増える。
だから、知識は本来、なるべく広く
たくさんコピーしてばらまいて使えるようにすべきものだ。
それを制限してはならない。…
…これが知的財産の基本だ。
基本はすべて、コピーしても無料でばらまいても構わない。
それをきちんと理解しておこう。


ただし、もしそうやって何でも自由に配布していいことにすると、
作るほうの人が苦労して新しい知的な財産を作らなくなるだろう、
という心配がある。…
…それではかえって困るので、一時的に限られた独占権を認めることで、
発明家や開発者やアーティストたちに
いろんなものをどんどん作ってもらおう。
そのための独占権が、著作権というものだ。


だからそれは、完全な独占権を認めるものじゃない。
一時的、部分的な独占を認めるもので、
いずれそれは自由に流通させてもらうよ、
というのが基本的な前提になっている。
そしてその権利の範囲も、無制限じゃない。
それは開発者たちや作者たちが、
次の作品を作り出すだけのやる気が出る程度に認めるべきものだ。
それ以上著作権の範囲を広げることは、
そもそも自由に流通して万人に使ってもらうべき人類全体の財産、
という知的財産の根本的な性質を妨げるものだ、ということだ。
ところが、いまの知的財産権の動きは、
この基本をどんどん無視する形で進んでいる。
著作権をどんどん拡大解釈して、
あれもこれも、保護しろ、尊重しろの一点張りだ。
いろんなパソコン雑誌でも、著作権がどうしたとかいう話になると、
必ず著作権の専門家と称する人が出てきて、
尊重しましょう、無断で使ってはいけません、
保護しましょうのオンパレードだ。
本来、そういうもんじゃないはずだ。

山形は、
著作権を認める根拠となっているフィクションが一つある」
と述べる。
それは、
「えらい作者が、無からいきなり「作品」を創りあげる」というもので、
これを疑わしいと考える山形は、
そもそもすべての作品は既存の作品に言及・参照していることで成立している、
とする。

ぼくの言いたいことはわかるだろう。
だれも、何もないところからなんかものは作れない。
いろんなインプットがあってこそはじめてモノ作りは可能になる。
これもまた、著作権なんてものを野放図に認めるべきでない理由の一つだ。
アーティストと称する人たち、クリエーターと称する人たちだって、
いろんなところからいろんな材料をもらって、
その基盤の上で新しいものを作っている。
中には彼らがお金を払ったモノもあるだろうけど、
そうでないものも無数にあるはずだ。
そしてそうやって自分たちも無料で
フリーの材料に負うところが大きいんだから、
他人に対しても、
無制限に権利主張をすることが認められていいはずがない。
それをやると、いずれ自分の首を締めることになる。


そして実は、まさにいま言ったようなことが本当に起きはじめている。
他人に対して、著作権を守れだの無断使用をするなだのと
小うるさいことを言い続けてきた映画業界は、
これでいま非常に困った状況になっている。
いま、映画のエンドクレジットを見てごらん。
すごく長いでしょう。
昔の映画は、最初にぞろぞろっと出演者の名前が出て、
最後にThe Endと出たら映画はそこで終わりだった。
ところがいまは、エンドクレジットが10分くらい続く。
そしてそこを見ていると、
信じられないようなものまでいちいちクレジットされている。
ロケ隊の食事のケータリングをしたのがどこか、とか。
そんな、だれも興味を持つとは思えないような話がいちいち書かれている。
そして、それをしないとアメリカでは訴えられたりする。
12モンキーズ』や『バットマン・フォーエヴァー』は
これが原因で公開が遅れたそうだ。
こんなのが本当にいいことだろうか?
こうやって権利を守ることで、新しい映画が生まれるようになるだろうか?
映画作家たちは、「これで安心して映画が撮れる」と思って
新しい映画をどんどん作るようになるだろうか? 
まさか。
そんなんじゃあ、だれも自分で映画を撮ろうなんて思わないだろう。
だって面倒だもん。こわいもん。
どこでどんなものが映るかわからないし、許可が取れるかわからないし、
見逃したら訴えられるかもしれないし。


もしそうなら、この著作権知的財産権の発想は全くの失敗だった、
ということになる。
というのも、知的財産権なんてものを考える唯一の理由は、
さっきも言ったように、みんながいろんなものをどんどん作るように、
やる気を出させるためだからだ。
新しくものを作る妨げになるようじゃ、
その目的はまるで達成されていない。


残念ながら、著作権を弱くすることでメリットをこうむるのは、
未来の人、これから出てくるアーティストや視聴者たちだ。
それを強くして儲かるのは、既存の著作権保持者だ。
後者は金もある。組織もある。
前者は、いまはだれかさえわからない。


すると世の中は、既得権益の保持者たちが、
知的財産権を使って目先の利益を確保するにはどうしたらいいか、
ということしか考えないような方向に進むことになる。
今起きてるのは、まさにそういうことだ。


ある物書きの寄り合いは、
図書館や古書店のおかげで自分達の本の売上が減っているから、
図書館に自分達の本を置くな、なんてことを真顔で主張してる。
図書館に置かれることで生まれる
新しい読者のことを考えているんだろうか、その人たちは。
そして自分がものを書くときの資料集めに、
図書館が多少なりとも役に立っていることを考えないんだろうか?

山形は現在の状況をこう説明し、
「とりあえず、あなたにできることからはじめよう」と呼びかける。
つまり、もしも自分でWebページを作るなどしたら、
「禁無断転載」だの「営利目的の利用を禁ず」だのとかいう
下らない条項をつけるのはやめよう、とするのだ。
そしてこれはコンピュータの特殊技能である「情報の並列化」に
反することでもある、として本書を終える。


本書の全体の構成を考えたとき、
著作権の部分は少々突然な印象を受けるけど、
しかし現在のネット環境を考えた時には
充分考慮してしかるべきものでもある*1


ぼく自身、山形の意見にもちろん賛成。
ぼくががミュージシャンだとして、発表した曲の一部分を、
それとわかるようにサンプリングされて利用されたとしたら、
ぼくは嬉しい。
使用料をよこせ、なんてことを言うつもりも全くない。
そのままだったらそこで終わってしまった作品が、
再び新しい作品として生まれ変わるわけだし、
サンプリングされるということはある程度その素材に価値を認めた、
ということになるだろう。
これもまた、新しい文化の可能性というものだろう
(そして、ヒップホップはまさにそういう文化であり、
 その代表的なアルバムは、いうまでもなくデ・ラ・ソウルの1st,
 『3 FEET HIGH AND RISING』だったりするわけだ)。
「ちまちまとした使い方」とは無関係だけど。
しかしこういった根本にある考え方は何かの役に立つはず。*2



最後に、本書の感想を。
面白く読みましたが、著者自身認めているように
少々まとまりに欠いている印象を受ける。
本質的な議論もされているし、切り口も非常に面白いんだけど、
あまり体系化されて述べられていないように感じる。
もっとも、これは山形の他の著作のにもあてはまることだけどね。 
次は山形氏の経済関係の著作を期待。


新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち

新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち

*1:もちろん、著作権の問題はLinuxなどのフリーソフトの問題と密接に関係しているわけだ。

*2:ちなみに、著作権については、山形氏も翻訳しているレッシグの『コモンズ』が詳しいのだろう。