『A.I.』、スピルバーグ監督

とても面白かった!
といっても、
「デイヴィッド、おかあさんに会えてよかったね!
 スピルバーグよ、感動をありがとう!」
なんていう意味で面白かったわけじゃない。
この映画がすごくたくさんの悪意に満ちているからなんだ。


まず、始まって5分で「セックス・ロボット」の話題が
当然のように語られるのに感心した。
セクサロイド」や「メイドロボット」など、呼び方はなんでもいいけど、
日常生活でロボットが普通に使われるSFを扱うとき、
この存在はリアリティの追求に欠かせない存在だと思う。
この存在を無視した世界観のSFって、ぼくはどうも入り込めない。
世界最古の職業が売春であるといわれているように、
セックスの問題は文化の発展と切り離せないものだと思うからだ*1


スピルバーグは執拗にデイヴィッドをいじめ抜く。
ロボットには禁じられた「人間の食事」を行い、
当然のように機能不全を起こし、醜く歪む顔。
育て親の元に本当の息子が帰って来て、迫害されるデイヴィッド。
様々な局面で、自分が単なるロボットに過ぎないことを思い知らされる。
ラストでは救われたような演出になってるが、
これも結局は、「ロボットは人間になれない」、
「ロボットと人間は相容れない存在だ」ということを
冷酷に述べているのではないだろうか。
ハーレイ・ジョエル・オスメントの「泣き顔」も効果的。


エンターテイメント性を前面に打ち出し、
後半はメロドラマに仕立ててるからわかりにくくなってるけど、
これはすごく悪意に満ちている映画だと思う。
どういうことか説明するけど、これは少しややこしいから長くなる。



この映画には、
「奇妙な出来事・悲惨な状況をリアルに描くこと」が最優先なのであり、
その表現が人権(この作品では「ロボット権」か)や
PC(Political Correctness)を多少無視しようとも、
いや、それらを無視してその状況をリアルに表現できるなら、
むしろ進んで無視して、
いわゆる良識派が眉をひそめるような表現を選択する姿勢がある。
そしてその表現があまりにも上手く出来ているため、
観客もその事態を楽しんでしまう。
残酷な場面に声を上げて笑ってしまったり、
高揚感を味わってしまうことさえある。
で、映画を観終わった後に冷静に話を分析してみると、
実はその事態が相当悲惨な状況であることに観客自身気づき、
先程のその状況を楽しんだ自分を苦々しく思う。
そもそも、スピルバーグがわざわざ
良識派が眉をひそめるような表現をしたのは、スクリーンの中の状況が、
特定の人物だけにあてはまるような限定されたものではなく、
観客の人間誰にもあてはまることを示すためなのだ。
つまり、その出来事・状況の異常性や狂気が普遍的なものであり、
決して特別なものではないことを示すこと。
それが監督のねらいなんだけど、状況の異常性を伝えるために観客に、
わざわざいったんそれを直接体験させる方法は「人が悪い」方法だし、
そもそもその状況の描き方がひどい。
明らかに監督自身「悪意を持って」楽しんでやっているように思える。
A.I.』には、この二重の意味で「悪意がある」と思うんだ。


映画を観終わってからゆっくり考えたときに気づいたんだけど、
これと同じ方法で映画を撮る監督を思いついた。
それが他ならぬキューブリック
……って、これは半分嘘。
本当は、キューブリックの映画のことを考えていて、
その構造が『A.I.』にもあてはまることに気づいたんだ。
『時計仕掛けのオレンジ』で、
アレックスが「雨に唄えば」をうたいながら暴行を加えるシーン、
フルメタル・ジャケット』の訓練のシーン、
博士の異常な愛情』のラストの原爆投下のシーン……。
これらと同じ構造が、『A.I.』にもみられると思うんだけど、
どうだろう?
手近の映画本をパラパラめくっていたら、
A.I.』と諸キューブリック作品の関係について、
面白いコメントを見つけた。
『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』。
これは久しぶりに面白い映画本だ!
その内容については明日に書く。
(明日に続く)


A.I. [DVD]

A.I. [DVD]

*1:ちなみに、『イノセンス』はいきなりセクサロイドの暴走で始まる。さすがだ。