(昨日の続き)
「第二回 恋に落ちたエイハブ船長」
は、タイトル通り、『白鯨』におけるエイハブ船長の位置を考察する。
『白鯨』§1の有名な箇所、
確かに、私がこの捕鯨航海に出ることは、
とうの昔に作製されていた神意の大番組の一部に
組み込まれていたに違いない。
私の出番は大出し物を控えた短い一人芝居か幕間狂言といったもの。
私の出番に関わる芝居のビラは大体こういうものであったに違いない。
「合衆国を選ぶ大選挙戦」
「イシュメールなる者による捕鯨航海」
「アフガスタンにおける血なまぐさい戦闘」
どうして「運命」なる舞台監督が、
この私に捕鯨航海などというさえない役柄をあてがいながら、
他の連中には崇高なる悲劇の壮麗なる役柄、客間喜劇の短く簡単な役柄、
笑劇の陽気な役柄を与えたりするのか、私にはしかと理解しかねる――
を引き、
旧約聖書経由の、自分以外を信仰する者を罰する神としての
「嫉妬する神」の論理こそは、
資本主義の大義名分(スターバック*1が象徴)に逆らっても、
エイハブ船長の「復讐」、転じては
以後のアメリカの「報復攻撃」を正当化していく論理。
として、アメリカ帝国主義の象徴としてのエイハブ船長を抉り出す試み、
さらには時代の変遷に伴うエイハブ像の変遷は興味深かった。
例えば、
「ロープに縛り付けられて白鯨もろとも
海に飲み込まれてゆくエイハブ船長の最期」という像は、
ブラッドベリ脚本、ジョン・ヒューストン監督による
映画版『白鯨』(1956年)によって確立された。
など。
さらに、§1に示される、「アフガニスタン」についても、
拝火教徒フェダラーの位置。
拝火教=ゾロアスター教の開祖ゾロアスターは、
アフガニスタン北部に位置する都市バルフで暗殺されている。
また、エイハブは自身を「ティムール帝国のモンゴル大帝」、
「ティムール大帝」とたとえており、エイハブとフェダラーは
アフガニスタンを軸に結びついている。(エマソンもゾロアスターを取り込む)
ゾロアスター教が火を尊重する理由。
→ イランから産出される石油を前提としている。
中東における燃料としての石油の歴史は
紀元前3000年のメソポタミア時代にまで遡る。
ゾロアスター教の起源としては、
ビチェーメンといわれる半液体状の油が地面から染み出し、
その一部がガスを発生して燃えつづけていたことに
求める向きもある。
や、
第一次イギリス=アフガン戦争(1839)。
駐在する英軍・印軍の性的不品行や宗教的冒涜に腹を立て、
アフガン人はテロリズムにより、英軍をインドに追い返した。
1878年の第二次戦争、1919年の第三次でも英軍は負けつづけた。
2002年のイラク戦争は、イギリスにとって正義の名のもとに
過去160年ほどにわたる屈辱を晴らすことの出来る
絶好の復讐の機会だった。
など、とても19世紀に書かれたとは思えない、
英米とアフガニスタンとの関わりも説明されており、勉強になった。
そして「第三回 核の文学、文学の核」では、
『白鯨』には既に時代を先取りして「核戦争の恐怖」、
その終末論的な恐怖が述べられているとし、
主に20世紀の文学作品や映画などを引き合いに出して
『白鯨』との比較を試みる。
イシュメールが生き残り、『白鯨』を語るという構造。
これは、すべてが終わった後もなおすべてを語ろうとする意志、
不可能を生き抜こうとする意思を示している。…
…不可能な条件の中でなお唯一の可能性を模索しようとするこの態度を、
黙示的想像力と呼んで構わないとすれば、
そのさなかにこそ、核心的な文学のあり方が潜んでいる。核の文学を考えることは、文学の核を考えることなのである。
という考えには確かに共感できるが、
ピンチョンやらアーサー・C・クラークやら怪獣映画を持ち出して
『白鯨』を核文学として論じるのは、
わたしには少々難しかった。
この解釈の視点は、もう少し私の中で熟成させる必要があるだろう。
今振り返ってみると、昨日冒頭で書き始めたときと比べて、
この本がしっかりと考えて構成されていることに気づいた。
これはオリジナルテクストの『白鯨』にも言えることだが、
どうも私の処理能力を超えている本のようだ。
今回まとめたことを武器に、いずれまた挑戦したい。
『白鯨』も巽孝之の解説も、
読んでまとめるのに恐ろしく時間がかかったが、
その分恐ろしく勉強になった。
しばらく、まとめたものを読み返してみる。
これでやっと『白鯨』から離れられる……。
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