『MALTAのサックス修行一直線』、MALTA、音楽之友社、1999年

「著者紹介」より。

本名、丸田良昭。鳥取県倉吉市出身。
13歳からサックスを吹き始め、1966年より故阪口新氏に師事。
1973年東京芸術大学音楽学部器楽科卒業、
1976年ボストンのバークリー音楽院卒業後同校で一年半教鞭をとる。
1979年には名門ライオネル・ハンプトン楽団に迎えられ、
後に同バンドのリードアルト兼ミュージカル・ディレクターに就任。
1983年デビューアルバム『MALTA』。
その後、数々のアルバムを発表すると共に、テレビ・ラジオ等への出演、
雑誌連載、教則本の出版、「全日本高校選抜吹奏楽大会」で
「マルタ賞」が1991年設立、
さらに「PIAAマルタ・レーシング・チーム」の監督として
鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場するなど、
ジャズ系アーティストの枠に収まらない精力的な幅広い活動を広げている。
(『エクセルシアー』、1991年。自身の言葉によれば、「集大成の音楽」)


いきなりこう書き始めるのもなんだが、MALTAのアルバムは聴いたことがない。
私は本多俊之のファンだったので、MALTAには手が伸びなかったのだ。
この本を読んで興味は持ったのの、積極的には聴く気にならない、
というのが正直なところか。
もちろん、機会があれば聴いてはみたいのだが…。


MALTAについて私が思い出す曲は、「ハイ・プレッシャー」。*1
高校の吹奏楽部で、一つ上の先輩達がコンボ形式で演奏していたのを
カッコよく思ったのをおぼえている。


以下、メモ程度に。

ミンガスとの共演歴アリ。
日本盤『ミー・マイセルフ・アンド・アイ』(1977年?)。
しかし、その後ミンガスは体調を崩し、一年後に亡くなる。

1978年6月から9ヶ月間、
ジャック・マクダフのレギュラー・バンドのサックスとなる。

上を向いて歩こう」や「りんご追分」はよくカバーされる。
「りんご追分」はArt Blakey & Jazz Messengers にも取り上げられており、
さらにグローヴァー・ワシントンJr.の「ワインライト」の
始めの8小節が同じコード進行だ。

ジャズがアイドル的人気があった時代。
「ビッグ・フォー」……ジョージ川口(dr.)、松本英彦(ts.)、
小野満(b.)、中村八大(p.)

タモリとも仲がよい。

・1962年、渡辺貞夫バークリーに留学する。
佐藤允彦、荒川康男などがそれに続く。

最後に、MALTAが世話になったライオネル・ハンプトンについて書いておく。
自身のビッグバンドを持ち、ヴァイブ奏者であるこのジャズマンは、
ジャズ史において少々政治的な文脈でよく知られている。


ベニー・グッドマンは自身のビッグバンドに雇うミュージシャンを
肌の色で区別しなかった。
彼の方針は、「創りだす音楽がよければ採用」―
―そんなグッドマンの眼鏡にかなったのがピアノのテディ・ウィルソン
ギターのチャーリー・クリスチャン
そしてヴァイブのライオネル・ハンプトンLionel Hampton)だ。
このグッドマンの採用基準は、
恐らくグッドマン自身ユダヤ人であることと無関係ではないだろうが、
MALTAライオネル・ハンプトンのバンドで優遇されたという
エピソードを読んだとき、このことをふと思い出した。
純粋にMALTAの音楽性が評価されたのだろうが、
MALTAが「東洋人」であることがハンプトンの評価の障害とならなかったのは、
やはりハンプトン自身の体験も影を落としているのだろう。


と、ここまでならばジャズ史の美談で終わるのだが、
実はライオネル・ハンプトンにはもう一つの顔がありそうなのである。
それはジェームズ・ブラウンの自伝、『俺がJBだ!』から窺うことができる。


1966年の公民権運動がさかんだった頃の話である。
政治にも積極的に発言していたJBは、その夜、
名高いアポロ劇場で「ショー(JBは自分のライブをこう呼ぶ)」を行っていた。
すると、突然ライオネル・ハンプトンが舞台に上がってきた。
もちろん何の打ち合わせもなかったのだが、JBはハンプトンに敬意を表し、
彼を客に紹介した。
そのとき、
「舞台に上がってみんなに挨拶したがっている『子』が何人かいるんだが」と
ハンプトンが言ったのでJBがO.K.を出すと、
なんと舞台袖から出てきたのは当時再選を狙っていた
ネルソン・ロックフェラー知事。
ロックフェラーは舞台でJBの元までやってきて握手をしたが、
その瞬間、カメラのフラッシュがたかれ、スナップ写真が撮られたらしい。
JBの本を読む限り、JBはロックフェラーの選挙運動に利用されたらしいのだ。
そしてそれを仕組んだのがライオネル・ハンプトンだった、と。


もちろん、これは単なる逸話の一つであり、このことから
ライオネル・ハンプトンの政治姿勢を決定することは出来ないだろうが、
グッドマン以来のユダヤ・ロビーとの関係を疑う材料の一つにはなるだろう。
だが、私はこのことを弾劾するつもりではない。
というよりも、アメリカのショー・ビジネス界における
マイノリティの問題について考えが熟していないので、意見がもてないのである。
それは、ユダヤ人と黒人というアメリカのマイノリティに属する者が、
アメリカで成功を収めるために取った戦略として仕方がないものなのだろうか。
これは恐らく形を変えて日本でもありうる話なのだろう。
以後、アンテナを張っておくこととする。  


しかし、実はこの本を処分しようと思ってまとめたのだが、
こうしてまとめてみると結構面白い。
処分するのはもう一度読んでからにしようか…


あと、MALTAは女にだらしがないらしい。
誇らしげに自分で書いている。


ON BOOKS(139) マルタのサックス修行一直線

ON BOOKS(139) マルタのサックス修行一直線

*1:87年。「高血圧」でなく、「高気圧」の方だろう。サイドメンにドン・グルーシン(key.)、ジェリーヘイ(tp.)などの一流ミュージシャンを起用しているらしい