『STUDIO VOICE』(2005.JUNE)、特集 最終コミックリスト200 “00年代マンガのすべて”

STUDIO VOICE」の特集はとても重宝している。
今回は漫画特集だ。
興味深く読んだものがいくつかあった。

浦沢直樹
5/10, 5/28, 6/2, 7/1と浦沢直樹について書いてきたが、
それとほぼ同じことがSTUDIO VOICE(2005.JUNE)に書かれていたので引いておく。

ニューウェーブ的な出自を持ちながらそれを商業的にうまく利用してのし上がってきた作家……なんて思われていたのも今は昔、(ポスト)ニューウェーブ組が漫画の第一線から退いていくなかで、浦沢直樹はもっとも人気があり、最も批評的な漫画を描く現役の才能というのが定説となった。『PLUTO』で名前がクレジットされるようになったプロデューサーとの二人三脚も有名な話だ。
 『20世紀少年』連載開始当初の昭和40年代回顧ムードが、物語が進展するにつれ、特撮やアニメ的想像力が現実と化したときの悪夢(とロックの思想が現実化したときの希望)を描くための布石だったことが明らかになったように、浦沢自身の経歴における初期の作品は、後の作品への伏線にすぎないようにすら見える。
 とはいえ、思えばサイボーグ崩壊の美学を描いてきた梶原一騎的なスポ根への返答が『YAWARA!』だったわけで、初期作品も『PLUTO』同様、浦沢的な「書き換え」の試みとして読むこともできる。
 浦沢は一貫して、手塚や梶原といった戦後漫画の巨星達が残した問題に、真摯な態度を取り続けていたのではなかったか。アトムやオウムを扱った途端に批評家達が態度を改めるのはいかがなものかと思うが、そんな少数民族など浦沢は相手にしていないだろう。
 漫画批評(を漫画でやること)が、エンターテイメントとして十二分に成立する。浦沢は、そんな恐ろしくスリリングなことを実行している。(山田和正)

「漫画批評を漫画でやること」。
これこそ、「詩的なもの」の内部批判として私が書いたことだった。
この短いスペースに、実に上手く論じられている。
さすがである。

同誌は、他にも短いながら刺激的な評論が収録されており、気になったものを引いておく。


DEATH NOTE

最悪の場所から抜けられないという『カイジ』から設定を借りてビルドゥングス・ロマンを注入した19世紀的回帰が『彼岸島』なら、同じく『殺し屋1』における主体の不在に『スカイ・ハイ』を思わせる仮想の相談相手や会議という場所を与えて部分的に主体論を回復した逆戻り。ただし、ノートに名前を書キコするだけという殺人の主体としては中途半端=<『殺し屋1』と『ザ・ワールド・イズ・マイン』的ジェノサイドの中間で彷徨う自我>があっさり吸収されたと。(三田格

……同誌の三田格の文章は、この『DEATH NOTE』についてのものに限らず、
膨大な知識と引用が詰め込まれており、非常に濃密だ。
DEATH NOTE』は確かに面白いし、私も続きが楽しみな漫画なのだが、
何を言わんとしているのか、そしてどう評価すべきなのか、
私はまだ判断することができない。
そう、ノートに名前を書くのは恐らくネットの掲示板の隠喩であり、
ナイフを持って大量殺人に走る前の段階の人々の無意識が向かう先と
されていることもわかるのだが……。


STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2005年 06月号

STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2005年 06月号