ミヒャエル・ゾーヴァ展 −不思議な扉の向こうへ− 美術館「えき」KYOTO

「Denker」という絵がある。
薄暗い空を背景に、苔むした絶壁の上に腰をおろし、
「考える人」よろしく顎に手を当てているスーツ姿の男の後姿。
その後ろにはコードが繋がっているパソコンがある。
深刻に何かを考えているようでもあり、
何も考えずに崖の下を除いているだけのようにも見える。


作者が込めた寓意ははっきりとはわからないが、
この絵が喚起するのは「孤高」のイメージだ。


この絵は私の心を強く捉え、数年前から部屋の高い位置に飾ってある。


作者の名がミヒャエル・ゾーヴァだということは随分後になって知った。


ミヒャエル・ゾーヴァは、絵本や物語の挿絵を活動の中心とするドイツの画家。
この美術展は後援に「京都ドイツ文化センター」の名前があり、
どうやら2005年〜2006年の「日本におけるドイツ」キャンペーンの一環らしい。
最近では映画『アメリ』にその絵画やそのデザインした小物が使われたこともあり、一気に知名度も上がったようだ。
しかし、私がゾーヴァを知ったのは街で売られているポストカードでであり、
今回この美術展に足を運ぼうと思ったのも、
その一枚のポストカードが強く私の心を捉えつづけているからであった。
これが上述の「Denker」である。
残念ながら「Denker」の原画には出合えなかったが、以下、印象を記しておこう。


壁一面にわたる大きいものもあったが、ゾーヴァの原画は総じて極めて小さく、芸術作品である前に、職人芸のようなその技術に感心した。
絵本や物語の挿絵に使われるからといって、
なぜこれほどまでに小さく描かなければならなかったのだろうか。
これは、縮小によって印刷時にタッチなどが変わってしまうことを恐れたためか。


残念なのは、ほとんどの作品にガラスのカバーがかけられていたことだ。
油絵の場合、私はその色彩だけでなく、その塗りたくられた塗料の盛り上がり方、その筆使いも鑑賞したいのである。


また、ゾーヴァの作風に関していえば、
気持が悪いというか、可愛らしいというか…
…その世界は、独特な審美的な基準が支配しているように思われる。*1
「不気味さ」と「可愛らしさ」が同居したその特異な世界は、
濃密に塗り込められた油絵の重厚さと相乗して、
一度好きになってしまうと病み付きになってしまう魅力がある。

可愛らしいものの中にグロテスクなものを、
グロテスクなものの中に可愛らしいものをという考えは、
考えてみれば、ジュネ&キャロの世界観と同じである。
アメリ』に使われたのはピッタリだったといえるだろう。


ゾーヴァの画家としての才能、芸術としてのその評価のされ方はわからないが、
少なくともイラストレーターとしては優れているといえるだろう。*2


そして、会場出口付近の画集などの書籍販売コーナーで、
目当ての「Denker」のグリーティング・カードを見つけ、早速購入する。
これでやっと長年の謎が解ける。

というのも、実は私がはじめて出合ったポストカードの「Denker」は、
なぜかクレジットが

"DENKER", HEINZ OBEIN

となっていた。
そこにはゾーヴァの名前が記されておらず、そのため私はゾーヴァという名前になかなか巡りあえなかったのであり、今回の展覧会で、やっと「Denker」の作者がゾーヴァであることを確かめられると思っていたからだ。

だが、購入したカードのクレジットを見ると、

"LE PENSEUR", MICHAEL ZOWA

とある。
なぜフランス語?
「Denker」がやはりゾーヴァの作であることは分かったが、新たに謎が増えてしまった。


最後に、美術展ということを考えると、
いくら『アメリ』にゾーヴァの作品が使われていたことを強調したいからといって、繰り返し『アメリ』の音楽が流されていたのには閉口した。
美術館には、余計な音楽は要らない。
また、パンフレットが用意されていなかったのも私は不満である。
恐らく、ゾーヴァの新刊をパンフレット代わりに買わせようという魂胆なのだろうが、美術展は作家のサイン会などとは違う。
その時期にその作家を特集することそれ自体に意味があるのだから、
パンフレットは用意しておくべきではないだろうか。  (2005年6月12日)

*1:「スープ豚」「高速豚」などというユニークなタイトル、発想からもそれは明らかだ。

*2:同じく、奈良美智が「現代芸術」として高く評価されている理由は私にはよくわからないが、少なくとも、イラストレーターとしては評価できると思う。「芸術」を「イラスト」よりも高尚なものにしようとしているわけではないが、両者にはなんらかの区別が必要ではないだろうか?