ジャン=ピエール・ジュネ、インタビュー。

以前、『ロング・エンゲージメント』の公開に伴い、
ジャン=ピエール・ジュネのインタビューが新聞(朝日新聞・夕刊3/29)に
掲載されたことがある。
以下は他のブログに挙げたものだが、再び挙げておく。

映画監督には2種類ある。映像を10秒見れば誰が撮ったかわかる人と、
そうでない人だ。前者の代表はデビット・リンチやクロサワだろう。
私も、スタイルのある人間でありたいとずっと思っているよ。

映像化にあたっての関心は四つある。
人物像の魅力、物語の面白さ、ユーモア、そして映像美だ。
そのいずれにしてもオリジナリティーが必要。
原作にはユーモアの要素はなかったが、
私としてはどうしても盛り込まずに入られなかった。

分類が好きな監督である。
また、戦闘シーンが美しささえ感じられるように撮影されていることについて。

フランスでは、美しすぎると批判も浴びた。
美しいという言葉は使いたくないが、第一次大戦というのは、
それ以降の戦争と異なり、とても絵画的、映像的だと思う。
それが、この原作を映画にしたいと思った大きな理由だ。
戦争なんだから、いくらでも残酷なシーンは撮れるが、
そうはしたくなかった。 

最後に、この映画に、「落下」のイメージがあちこちに現れ、
それらがしばしば真上からのアングルで撮られることについて。

そうなんだ。
結局、死とは、神によって空から降ってくるものなんだよね。

このくだりを読み、ふと思いついたこと。

「落下」というよりも、
「ずり落ちる・滑り落ちる」イメージが充溢していたのは
クストリッツァの『黒猫・白猫』(『白猫・黒猫』だったかも?)、
登場人物の「服を脱ぐ」イメージが溢れかえっていたのは『ラスト・ショー』だった。
これらの映画も、何かの寓意が込められていたのだろうか? 

恐らくそうだ。
しかし、考え始めると疲れるのでとりあえずここにメモだけしておく。

ジュネの映像美には定評があり、僕もこれを評価する。
ジュネの映像の独自性とは、
「グロテスクなもの」を「可愛らしく」みせること、
そして「可愛らしさ」のなかに「グロテスクなもの」を接続することにある。
デリカテッセン』、『ロスト・チルドレン』は
(そして、僕は観ていないので何ともいえないが、恐らく『エイリアン4』も)
前者の要素が強く、『アメリ』は後者が強い。
筋を考えると、『ロング・エンゲージメント』も前者の要素が強い映画なのだろう。
あと、断ったらしいが、『ハリー・ポッター』の続編を撮る話も来ていたらしい。


また、本日の新聞(朝日新聞、4/1、朝刊)に
加藤幹郎の『アビエイター』評が載っていた。

が、これは「丁寧な解説」の域をでないもの。
これなら、菊地成孔の方が面白いことを書けそうだ。
なにしろ、菊地のアメリカ文化論は、
アメリカの3大富豪、ハワード・ヒューズバグジー・シーゲル、
ヒュー・ヘフナーを枕詞に語るのが定石だからである。


……と思っていたら、その後、なんと本当に菊地が朝日新聞
短い連載を掲載した。
夕刊の「オフステージ」という、芸術家が芸術活動以外の自分の日常を
綴るスペースで、批評は何もしていなかったが。

しかし、初めて菊地のあの内容を読んだ人は、絶対ファンにならないだろう。
読み方によっては、ものすごく嫌みな文章だからである。