『麦の海に沈む果実』、恩田陸、講談社文庫、二〇〇〇年(文庫は二〇〇四年)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

麦の海に沈む果実 (講談社文庫)

エンターテイメントの世界で精力的に執筆を続ける恩田陸の小説。


学園ミステリーである。
六番目の小夜子』の系統か。
ただ、本作品は『三月は深き紅の淵を』と密接な関係がある。


『三月は〜』は、その名も「三月は深き紅の淵を」という本をめぐる四章構成の小説だ。
それぞれの章は、架空の小説「三月は深き紅の淵を」という小説をめぐる各々無関係の話である。そのうちの最終章第四章で、本作品『麦の海に〜』の
作品構想とでも呼ばれるべきものが記されている。
そして本作品は、この『三月は〜』に書かれている通りの内容なのである。


以上のように、『三月は〜』という小説は、
小説のメタレベルをテーマとする小説であり、
『麦の海に〜』もこれを補完する小説であるといえる。
その意味で複雑な小説なわけなのだが、しかし、この作品自体は非常にシンプルで
オーソドックスな学園ミステリーである。


閉鎖空間としての学園で繰り返される殺人事件、
そしてその謎に深く関係している美人の女主人公、ハンサムな男友達……と、
ステレオタイプ以上のものは何もない。
『三月は〜』や『遠野物語』などを読み、恩田陸と出会えたことを
嬉しく思った僕としては少しガッカリしてしまった。
リアリズムの追求がこの小説の至上命題ではないことは
重々承知しつつ言わせてもらう………こんな中高生いねえよ!


特に気になったのは、会話がとても多いことである。
小説に限らず、映画などの全ての物語を内包する芸術において、
会話、即ちダイアローグは状況を説明するのに便利であるため、
複雑な状況が展開される時にはどうしても会話が多くなってしまう。
本作品もその傾向から脱しきれていない。
頁数にして訳500頁の小説だから、これを会話でなく描写などでじっくり書いたなら
膨大な量になったに違いない。


もちろん、「会話が多い」という特徴はそれ自体では悪いことではない。
本作品ではそれが状況説明、物語を進めるための装置として
利用されていることが気になるのである。
これなら、小説という形でなく、脚本だとか、またはいっそのこと映画などの方が
しっくりきたのではないか、という印象を受けた。


まるでシドニー・シェルダンの小説のようにスラスラと読めてしまい、
話としては楽しめたのだが、以上のような設定上の紋切り型、
技巧上の軽さが目に付いてしまった。


解説は笠井潔
予想通りの「硬質で情報量の多い」文章である。
これは悪い意味でだが。
本文との対比のためにこのような解説を付したのか、
と勘繰りたくなってくるほどである。

ただ、末尾の

作者や読者と自堕落に密通する物語に辟易せざるをえない読者には、この小説を(上記のメタレベルの構造の上に成立する小説として)読んでみるよう、あらためて勧めたいと思う

という言葉は、この小説が「作者や読者と自堕落に密通する物語」だ
とでも述べているのだろうか。笠井潔ならやりそうなことだが……。


さて、「ミステリーの純文学化」というのは興味深いテーマである。
本作品をめぐるような、現実と虚構、メタレベルに言及する構造というものは、
従来文学上の実験として行われたものだった。
それが現代の日本では、純文学の分野としてよりもむしろミステリーなど
エンターテイメントの世界で実験は敢行されているように思われる。
そして純文学は私小説的で、未知の出来事に光をあてればよしとする、
ある種のオリエンタリズムに毒されているように思われる。


思うに、日本における純文学の衰退とミステリーの発展は、
戦後民主主義の堕落と資本主義の貪欲さに正確に対応していると思う。
そしてそれは、戦後において、日本がその国際政治的な姿勢や態度でなく、
「経済大国」として世界に認知されたという事実からも明らかであろう。


いま、『イデアの洞窟』というミステリーを読んでいる。
これもメタレベルへの言及をそのテーマとする急進的なミステリーだが、
これがとても面白い!