『MONSTER』、浦沢直樹、小学館、1995年〜2002年

思うところがあり、『MONSTER』を読み返した。


浦沢直樹を同時代体験できる我々は幸せである。」


何度となく繰り返したこの命題を、ここでもう一度記しておこう。


『MONSTER』は大ヒットしたマンガであり、
『YAWARA』に続き、いわゆるマンガファンでないフツーの人々に
広くアピールした作品である。


だが、実はこのマンガ、私は一回離れたことがある。
MASTERキートン』で決定的な浦沢信者になってしまった私としては、
謎が謎をよんでカタルシスがないままに読者を吊り下げておく
(これこそ「サスペンス」の本義だが)『MONSTER』はいまひとつノレなかった。

今考えると、理由は二つある。
一つは浦沢の長編化への不安、もう一つは周囲の異様な盛り上がりである。
以下、それぞれ説明する。


前者。
浦沢直樹はそのまま放っておくと物語がダラダラと続いてしまい、
「物語を最良の時期に終わらせるタイミング」を逃してしまう傾向がある。
『YAWARA』や『HAPPY !』にそれが顕著でないだろうか。
それに比べ、原作者付きで原則として一話完結の
『パイナップル・アーミー』や『MASTERキートン』は、
どの話も完成度が高く安定して最後まで楽しめる。
『MONSTER』もその罠にはまってしまうのではないか。


後者。
僕をこのマンガをコミックで一巻から発売と同時に買い求めていたが、
確か3,4巻くらいからだろうか――
マスコミなどが取り上げはじめ、大ブームになっていった。
だが、マスコミの特集や周囲の人間と話をしてみても、
漫画的表現についてははいうまでもなく、
物語の筋さえもろくに理解できていない人間が多く、
どうしてそこまで浦沢直樹を持ち上げるのか理解できなかったからだ。
女性的な表現をすれば、
「ワタシの方がアナタ達よりずっと昔から、彼のことよく知ってるんだから!」
とでもなるだろうか。典型的なファン心理である。

 
今となってみれば、前者は杞憂であったことがわかる。
もっとも、後者の感情はいまなお強くなっているのだが。

『MONSTER』に関して、『Quick Japan』vol.42の佐々木敦の連載、
「SOFT & HARD」第2回に的を射た批評が掲載されているので抜粋しておこう。

 …『MONSTER』の最終巻を読み終えて、
浦沢直樹の「聡明さ」と「勇気」に強く感銘を受けた。
 「聡明さ」とは、浦沢がこの作品を「絶対的な悪」の物語として決着することを回避してみせたからである。確かに物語の中途までは、ヨハンは「世界」と「人間」への冷徹な憎悪に満ちた、文字通りの一種のモンスターとして描かれている。しかし真相があらわになってくるにつれて、ヨハンを「モンスター」に変貌させてしまった人々、「怪物」を作り出すことに加担した人々の存在が浮かび上がってくる。ヨハンはある意味では犠牲者であるが、だからといって浦沢は、「悪」はヨハンでなく彼らであるとも描かない。
 浦沢は彼らを、自らが犯した行為についての改悛や後悔の念に囚われた者、人間的な弱さゆえに運命的な成り行きに抗し切れなかった者として描き、「悪」として完結させようとはしていない。
 浦沢直樹の結論はこうだ。

 「絶対悪」などいない、「モンスター」など存在しない。

 90年代以降、小説、映画、文化、そしてもちろん政治、犯罪事件、社会問題でも、「得体の知れない邪悪なもの」をほのめかす姿勢が蔓延している。オウム、鈴木宗男林真須美酒鬼薔薇聖斗…など。
 これらの「わかりやすい悪の原因」は、その分かりやすさゆえにとりあえず人々の心に安心感を植え付けるが、しかしこれらの問題の真の原因を深く掘り下げることを妨げもする。浦沢のこの物語の結末には、こうした現状の「聡明な」認識が反映されているのではないか。

 「勇気」とは、やはり「絶対悪」の提示を求める人々にとって、このような結末は「安易で大甘なヒューマニズムへの退歩」とみえてしまうことである。弱さや曖昧さや甘さと誤解されかねないことを百も承知で、世界には「モンスター」などいないし、「絶対悪」などいないのだ、と言ってのけること。
 あらゆる出来事は、それに関わった人間の足し算と掛け算から生じているのであって、それ以上でも以下でもない。われわれは、安易な原因の提示をやめ、と出来事の冷静な認識に努めなくてはならない。…

氏の批評は深く納得できるものであり、
物語に関して私はこれ以上の分析や意見を加えるつもりはない。
ので、私は他の細かい点について記しておきたい。


主人公、「Dr.テンマ」とは、『鉄腕アトム』の「天馬博士」と双子の存在である。
天馬博士は、事故で亡くした息子の代わりに、人間の味方である10万馬力のロボット、
アトムを自ら望んで作り出した。
Dr.テンマは、人間を冷徹に殺していく存在を、
やむにやまれぬ状況に流されて生み出してしまった。


天馬博士は折にふれてアトムを助けるが
(アトムの能力を10万馬力から100万馬力へと改造したこともあった)、
Dr.テンマはヨハンを殺すために彼を追いつづける。


ストーリーマンガ家にとって、手塚治虫は無視することの出来ない存在なのだろう。
個人的に手塚治虫のことを尊敬していた浦沢にとって、
それゆえ「Dr.テンマ」という名前は深い意味を持つ。
鉄腕アトム』との関係で読み直してみると、新たな発見があるかもしれない。
そして、浦沢の手塚治虫への目配せは、
現在連載中の『PLUTO』――即ち、『鉄腕アトム』の「史上最大のロボット」で
誰の目にも明らかなものとなった。


私が思うに、『MONSTER』の魅力は、「ヨハンを追う」というメイン・ストーリーも
さることながら、その脇役達・サイド・ストーリーにこそ存在する。


ベトナムで現地の夫婦を撃ち殺し、その夫婦の娘と森で暮らす老兵、
若い頃の失敗からアル中になり、警官から探偵と身を持ち崩しながらも
更生しようと努力する探偵……どれも、それだけで短編が作れてしまうほどである。
中でも私が好きなのは、一度女に裏切られていながらも、
エヴァの監視続けているうちに結局エヴァを救うために組織に逆らってしまう
ボディー・ガードのマルティン
511キンダーハイム出身のグリマーさん。
 

最後に、あのラストシーンはいかがなものだろうか。
恐らく、佐々木敦のいうように「絶対悪」の不在を示しているように思われるが、
B級ホラー映画的な余韻を残すもの、として誤解されかねないのではないだろうか?

それだけが唯一の不満である。  


Monster (18) (ビッグコミックス)

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