『ガリヴァー旅行記』、スウィフト、岩波文庫、平井正穂訳、一九八〇年

("Gulliver’s Travels", Jonathan Swift, 1726)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)



ガリヴァー旅行記』は豊かなテキストである。


子どもの頃に絵本などの簡略版でそのまま通り過ぎてしまうのはもったいない。


このテキストは比較文学比較文化ではない)において、
社会学におけるマックス・ヴェーバー、西洋近世哲学史におけるデカルト
ジャズ史におけるマイルス、コルトレーンの位置を占めているらしい
(ちなみに、四方田犬彦修士論文はまさにこのテキストを論じたものだったし、
 サイードもスウィフトについて数本論文を書いている)。

その豊かさは、このテキストから取られた名称が
現代においても溢れていることからも窺い知れるだろう。


 空に浮かぶ島の名前は「ラピュータ」だが、これは雑誌の名前にもなっているし、
もちろん宮崎駿のアニメでもおなじみだ
(ちなみに、宮崎駿の作品のうちその多くには原作が存在する。
 『未来少年コナン』、『ルパン三世』、『魔女の宅急便』、『ハウルの動く城』。
 ナウシカだって名前だけなら出典は『オデュッセイア』だ。
 ただ、原作と完成した宮崎作品は大きく異なっており、
 その翻案の仕方が宮崎駿の独自性といえるだろう)。

 初めてガリバーが訪れる小人国の名前は「リリパット」だが、
これはファンタジー系のゲームではおなじみの小人族の名前だし、
中嶋らもの劇団の名前でもあった。


 だが、なんといっても後世に圧倒的な影響を与えた
(そして今も与え続けている)のは、最終篇「フウイヌム国渡航記」である。

フウイヌム国には、「ヤフー」という、とにかく恐ろしく醜く不潔で臭く、
いつも大勢で群をなして騒ぎ、樹上から排泄物を投げつけたりケラケラと
からかいの声を立てたりする、猿に似た動物が生息する。
 ガリヴァーは自分はこんなおぞましい動物とは関係ないと声高に主張するが、
叫べば叫ぶほど彼とヤフーの区別は曖昧になり、
ついには自分もヤフーであると信じてしまうようになる。


 1994年に、アメリカのスタンフォード大学にいた二人の学生が、自分達が
考案したインターネットの検索エンジンにYAHOOという名前を与えたとき、
おそらく彼らの念頭にはこの生物が浮かんでいたに違いない。
 彼らが愛用の2台のコンピューター、アケボノとコニシキに
吹き込んだヤフーは、翌年にインターネットでホームページが普及すると、
あっという間に全世界を席巻する検索エンジンとなった。
 YAHOOとは、"Yet Another Hierarchical Officious Oracle*1"の略ですよ、
と彼らはいけしゃあしゃあと説明して見せた。
無理に訳せば、
 「やがていつかは以前とは別の、非公式だが神聖なるお告げとなるもの」
くらいの意味だろう。
従来の活字メディアのもつ権威主義的な「神聖なるお告げ」の向こうを張って、
別の情報回路を築こうというメッセージが、ここには込められている。
 インターネットにより、誰もが好きなことを、好きなだけ書き送ることができる。
かくして、情報における民主主義が実現したわけだが、
ここで問題になってくるのは、それではいかにして情報を識別し、
価値評定をしてゆくかということだ。
 民主主義は常に正しいと誰もが証言してきたが、
この「実現した民主主義」がヤフーの群の立てる叫び声でないという保証が
どこにあるだろうか?


以上は、四方田犬彦、『狼が来るぞ!』より。
以前に感心した文章なのでここに引用しておくことにする。


ヤフーの影響は、他にも沼正三の『家畜人ヤプー』が挙げられる。
ここで紹介される「ヤプー」とは、「ヤフー」の意味が響いているが、
同時に「JAP」のことでもある。


 敗戦後、連合国、特にマッカーサー率いるG.H.Q.により、
徹底的に植民地化された日本人をモデルにした奇怪な小説である。
この本では、「ヤプー」(暗に有色人種を示している)は、
白人の完全な「肉奴隷」であり、むしろ「肉奴隷」として肉体改造され、
白人の「性処理」担当の生き物と成ることに至福の喜びさえ感じる。


ここにあるのは、敗戦国であることの自己卑下と、
現状を痛烈に描き出すことにより反抗心を刺激する絶望的な心情である。


 最近、江川達也がマンガ化しており、話題になっている。さらにこの小説は、
ある世代の人々にとっては懐かしいであろう、
戸川純の「ヤプー」というバンドの元ネタでもある。


いずれにせよ、『ガリヴァー旅行記』は、文化についての言説を考察する際に
立ち戻るべきテキストなのだろう。


もはや絶版となっているであろう中野好夫の『スウィフト考』(岩波新書)、
イードの論文、そしてなにより四方田犬彦修士論文を読んでみたいものだ。

*1:コメント参照