(15/100) 『知のモラル』、東京大学出版会、一九九六

知のモラル

知のモラル



「知」の三部作、とりあえず完結。
三部作の中では、この『知のモラル』が一番手応えがあった。
自分の中でうまく咀嚼できてないものもあるが、引っかかってきたものを引いておこう。
松浦寿輝の論文の中のボビー・フィッシャーのエピソードが面白かった。

「知」とは、誠実に「盗む」素直さと、
大胆に「屑を捨て」まくる思い切りのなかから、
本物の「自分」をつかみ出してゆく仕事にほかならず、
この仕事には終わりがないのです。

日本が単一民族だという言説は、戦後につくられた神話です。
奥州平泉の都をつくったのはアイヌであったとか、坂上田村麻呂は渡来人系の武将だったとかいう説は、戦前では中学校の教科書に載っていたほど流布していましたが、これも、そのようなアイヌや渡来人もいまでは同化しているという主張のために使われていました。
(「神話をこわす知」、小熊英二

「知」とは辞書を引くまでもなく、少なくとも2つのことを内包している。1つは「知る」ことであり、もう1つは「知られたこと」である。ところで、少し注意して考えてみると、「知る」ということ自体には2つの側面がある。1つは「既に知られていること」を学んで知ることである。学生諸君が大学で学ぶことは、基本的には「既に知られていること」が、体系化され、客観化されて教えられる、と言ってよいであろう。しかし、もう1つの側面がある。それは既に知られたことを手掛として、あるいは素材として、自ら考えて、これまで知られていなかったことを、新たに見出して知ることである。研究というのは広さや深さにいろいろあるであろうが、そういう「知」の活動と言ってよいであろう。広く言うなら、そこに学問の発展があるわけである。
(「社会的公正への道」、隅谷三喜男

私たちが自分自身で任意に取捨選択できる諸規則のシステムといったものがあるとフーコーはいい、
それを「道徳(morale)」に対する「倫理(ethique)」と呼んだ。

松浦寿輝
・重要なのは超越できな「モラル」ではなく内在的な「エチカ」だということ
・「知のエチカ」は真理の概念を解体する「フィクション」によってしか
 実現されえないということ
・「知」を超えるものを前にした時の畏れを失ったとたん、
 「知」はそのエチカを喪失することになるだろうということ

法源
法の存在形態のことで、対象である行為または状況に対して適用すべき具体的なルールを導き出すための概念。わが国の国内法では憲法、法律、政令等が法源で、それらの中に書いてある規定を解釈して、具体的なルールを抽出することが許されます。
国際社会のおもな法源は、国際慣習法と条約です。国際慣習法を法典化すると条約となります。

行動生態学 …遺伝子のレベルから動物の行動を解明していく分析
       (ドーキンス、ウィリアムズ、ハミルトン、メイナード・スミス)
社会生物学 …人間の行動や社会の成り立ちの解明にも、同じような進化的支店を導入しようとする試み

ハイゼンベルク
研究者は自らの研究課題について考えるだけでは不十分で、その結果の実現という場面では国家の行政機構をも含む社会における公共の業務でイニシアチブをとる権限を、ある程度は持つべきだ、と結論します。彼自身はその通りに行動し、その後少なくとも物理学者によってこの結論は強く支持されて、物理学的知識の社会的適用という場面で物理学者は重要な役割を果たしてきたのです。

abduction …仮説形成、仮説的推論、アブダクション
演繹と帰納に対する新しい推論方法としてアメリカの哲学者パース(Peirce)が唱えたもの。
「誘拐、拉致」のニュアンスがあることに注意。

通時的 … diachronical, 共時的 … synchronical

「般若」とは端的に「知」のこと
パーリ語のpannaの音訳語で、サンスクリット語ではprajna)。

「知の完成」を目指す者をボーディサットヴァ(bodhi-sattva)、
つまり「菩薩」という。

ゴータマとは「最も優れた牛」の意味で、一種のあだ名。