『スキゾポリス』、アメリカ、1996年、S.ソダーバーグ監督

衝撃の『オーシャンズ12』を観て以来、
ソダーバーグが僕の中で気になる存在でありつづけている。


特に悪印象もなく、むしろ好きな監督の中の一人だったソダーバーグだが、
オーシャンズ12』を観て以来、僕の中でどう評価すればいいのかわからず、
どうにもおさまりの悪い日々が続いていた。
もっとも、特別好きな監督ではなかったのだから気にする必要はないのだが、
僕には、このような些細なことが一度気になると、そのまま放って置けない
という病的なところがある。
というわけで、『スキゾポリス』を借りてみた。


本作は、ソダーバーグの作品群の中で重要な位置を占めるもの、らしい。


1989年、26歳の時の『セックスと嘘とビデオテープ』でカンヌ受賞した
ソダーバーグは、その後深刻なスランプに陥っていた。
これは、若くして(特に処女作で)栄光を掴んだ人間にはよくあることである。
タランティーノも一時期は「映画を撮らない映画監督」と呼ばれていた。


この時期に、ハリウッドから離れ、超インディペンデント作品として作られたのが本作と『グレイズ・アナトミー』である。
この2本は、興行を無視してソダーバーグ自身がその時に本当に作りたかったものを作った作品らしい。


この作品に筋らしきものは一応あるが、それはほとんど意味をなしていない。
「自己救済団体」(意味深な社名である。ここにも監督自身の危機感が反映されているのではないだろうか)に勤める会社員と、歯科医の2人が主人公なのだが、この2役を監督のソダーバーグ自身が演じている。


フィルムの前半は会社員の観点から物語が語られるのだが、
前半の終りに会社員は歯科医に「変身」し、
後半では歯科医の観点から物語が語られている構造となっている。
そして、これに会社員の妻が歯科医と不倫をするエピソードが絡む。


こう綴るとスラップスティックな笑いが展開されるようであるが、
実際は話はこれだけではなく、無数のミニ・コントとでも呼ぶべきものが
挿入され、フィルムはオフ・ビートでナンセンスな空気で充満している。


このフィルムを、「現代社会における自己同一性保持の困難」や、
「単線的な物語信仰への疑義の表明」、
「『セックスと〜』以来のモラルの不安定性」などの言葉で語ることも
不可能ではないだろうが、これらの説明が
ソダーバーグにとって本作品を撮ることの第一の目的だったとは思えない。

監督自身、
「このフィルムはルイス・ブニュエルリチャード・レスター
そしてモンティ・パイソンの影響下にあるフィルムである」と語るように
(僕はモンティ・パイソンの影響を一番強く感じたが)、
ソダーバーグは本作を撮ることで何かを確認したかったのではないだろうか。


それはもちろん自分が影響を受けた先達、即ち自分のルーツなのかもしれないが、
むしろ、それらの先達が開発し、遺した「映画の方法」ではないか。


台詞に関してリアリズムは全く度外視され、俳優は「ト書き」を喋り、
アフレコが多用されるなど、「編集」を大いに利用した笑いが追及される。


ソダーバーグは、ここで単に笑いだけを追及しているのではなく、
映画の「編集」の方法を確認しているのだろう。


果たして、一体どの程度までなら物語を切り刻み、無関係な話を挿入しても、
エンターテイメントとして、あるいは少なくとも鑑賞に耐えるものとして
映画が成立するのか。


このフィルムを作りながら、ソダーバーグは編集の方法を確認し、
その限界を見極めようとしているように思えるのである。


このことは、同じ時期に撮ったもう一本の映画、
グレイズ・アナトミー』と比べてみることで、より明らかなものとなる。

(明日に続く)