「映画批評について」(四方田犬彦)

Q1:
映画について何らかの文章を書くことには、
一体どんな意味があると考えますか?
A1:
当惑して何をしていいのかわからなくなっている若い監督に、
大丈夫、君は孤独ではないのだからと声をかけてあげることは、
どの時代にも必要だと思います。
その逆に「王様は裸だ!」と叫ぶ子供の役も、
誰もが忘れてしまった人にもう一度栄誉を回復させてあげる役の人も、
必要でしょう。


Q2:
あなたが映画批評を書くとき、もっとも意識することは何ですか。
映画自体の倫理のことでしょうか、読者のことでしょうか、
それとも別の問題でしょうか。
A2:
あらゆる意味で徒党を組まないことです。


Q3:
かつてゴダールは、批評を書くことと映画を撮ることは同じだった、
と言っています。
あなたもこの意識を共有しますか。
するとすれば、どういう意味においてですか?
A3:
ぼくが批評家としてゴダールからどれほど多くのものを受け取ったかは、
『クリティック』の読者にはすでに自明のことだと思います。
今ではゴダール「について」論じること、
ゴダールを表象することに興味を感じていません。
大切なのは、いつもゴダールの傍にいて、
しかもゴダールを忘れていることです。


Q4:
あなたが影響を受けた、
あるいは感銘を受けた映画批評を三つ挙げてください。
A4:
瀧口修造『余白に書く』、平岡正明『ジャズ宣言』、
ロッテ・アイスナー『呪われたスクリーン』
(「SONIMAGE」7号、93年) 

赤犬本』より。
さすがは四方田先生、
Q1とQ2に対する答えは簡潔にして簡明な答えだ。
アカデミズムに身を置く人間として、
映画界全体の発展を念頭においた発言であるように思う。
だが、私が知りたいのは、
「映画について何らかの文章を書くこと」が、
四方田氏個人にとって一体どのような意味があるのか、ということだ。
ややもすると、映画批評は「個人的で感傷的な思い出・思い入れ語り」に
終わっててしまうため、四方田氏はコンテクストを重視した、
極力客観的な批評を実行してきたのだと思われるが、
ファンとは勝手なもので、
たまには氏の個人的な「思い出・思い入れ語り」も読んでみたくなってしまう。
最近になって書かれた
『ハイスクール 1968』にはこれらが書かれているのだが……。 
……やはり個人的なことは胸に秘めておくのが得策なのか。


A3とA4については、ぼくは判断ができない。
ゴダールを同時代体験するということは、
人にそこまで強烈な影響を与えるものなのか。