『20世紀少年』19巻、浦沢直樹、小学館、2005年

20世紀少年』は我々に強烈な問題提起を行っている。
今日はそれについて書いておきたい。

この漫画は、オウム真理教に代表される新興宗教を大きなテーマとして描かれているが、
興味深いのは1969年当時のサブカルチャーに多大な言及がされているところだ。
これには、作者浦沢直樹の、単なるノスタルジー以外の何かが示唆されている。


地下鉄サリン事件により、オウム真理教の組織や教義などが明らかになったとき、
識者は皆その教団の幼稚な思想を嘲笑した。
曰く、「有名大学に行ってても、
『人間は空を飛ばない』ということは学ばなかったのかねぇ」。
曰く、「『コスモクリーナー』って、『宇宙戦艦ヤマト』に出てくる道具でしょ?
虚構と現実の区別もつかないのかね」……などなど。

識者が信者達に説いたのは、虚構と現実の区別だった。
「終りなき日常を生きろ」。そんな言葉もあった。


この虚構と現実の対立は、「ハイカルチャーサブカルチャー」、
「政治的なものと詩的なもの」、「公的なものと私的なもの」という対立として、
現代社会思想でも度々議論の中心となるトピックである
(以前この対立を教えてくれた先輩に倣って、私はいま、
「『法』と『美』」という言葉を使いたい誘惑と戦っている)。


オウム真理教の信者達に対して識者が説いたのは、
「政治的なもの」と「詩的なもの」との区別、
そしてあまりにも「詩的なもの」に深く入ってしまった人々を
「政治的なもの」の側に引き戻すことだった。
これは当然なされるべき主張であるし、私はこれに異論は無い。
しかし、現代の状況を考えるにつけ、私は若干の違和感をおぼえるのである。


「詩的なもの」――即ち、本当に、戦後日本のサブカルチャーは、
単に人を楽しませ、一時的な享楽にすぎない底の浅いものでしかなかったのか?
高度経済成長はもはや過去の栄光であり、バブルが弾け、低迷する日本経済。
しかし、その中で未だ衰える気配を見せないのは、
「manga」、「ゲーム」などの「コンテンツ産業」ではないか? 
そして日本発のこれらの「コンテンツ」が世界に受け入れられつつあることは
何を意味しているのか? 
そして最後に、
「詩的なもの」は単に「政治的なもの」に対立するものでしかないのか?
その固有の価値は存在しないのか?


浦沢直樹はこの問いに自覚的である。
そして、この問いに関して、
「詩的なもの」に「政治的なもの」を対立させるのではなく、
「詩的なもの」と「詩的なもの」との対立という構造を提示した。
この物語に過剰に充満するサブカルチャーへの言及は
この対立の世界観を示している。
戦後日本の「詩的なもの」で育ち、
自身、現代において強力な「詩的なもの」を生産する浦沢にしてみれば
当然の選択であろう。


それでは、
この「詩的なもの」と「詩的なもの」という対立は何を意味しているのか。
もはや「政治的なもの」はなんらリアリティを持ちえないことの現れなのか。
その対立を通して「詩的なもの」の自律性を示したいのか。
それはまだ明らかにされていない。
が、この19巻で、浦沢の意図を窺うことができる箇所がある。
それは、ケンヂが漫画家の氏木常雄と語る場面だ。

氏「いいですねえ……」
ケ「何が?」
氏「歌ですよ。
  スペードの市から聞きましたよ。
  関東軍に捕まったあなたの相棒が、こんなこと言ってたって…
  …あなた、ギター一本と歌で北の国境警備隊をねじ伏せたんでしょ?
  歌はすごいや…世界を変えられる…」
ケ「お前には漫画があるじゃねえか」
氏「漫画?
  漫画なんてダメですよ。警備隊の前で漫画描いたって、
  絶対に撃ち殺されちゃいますよ。」
ケ「それがすんごい面白い漫画で、
  警備隊の連中が続きを読みたくなったら?」
氏「終りまで描いたところで撃ち殺されちゃいますよ。
  歌はすごいや」

ケ「……あのなあ、言っとくがな。
  歌なんかで世界がかわるわけねえだろ。」
氏「いや、そんなことないスって」
ケ「俺ぁそんなものはこれっぽっちも信じちゃいねえ。」


18巻にはこんなシーンもある。

蝶野「あ……あなたはすごいです。」
ケンヂ「何が?」
蝶「歌を歌ってる人間は撃たれない……」
ケ「バーカ、んなわけねえだろ。」
蝶「は?」
ケ「現に撃たれてんじゃねえか」
蝶「で……でも……」
ケ「歌なんか歌ってたって、撃たれる時は撃たれる」


過去にギターを弾くことで自分を取り戻し、
「ともだち」に立ち向かっていく決意をしたケンヂ。
いわば「詩的なもの」の代表者だったが、
今では自分の「詩的なもの」を相対化し、
歌に自身の根拠を求めていないように見える。
このケンヂの変化、ケンヂが「三日三晩山ん中を転げまわっ」て、
「泣いて泣いて三日三晩山ん中で泣き明かして」認識したことこそ、
浦沢の主張に他ならない。


それは、まだ語られていないので推定するしかないが、
「詩的なもの」と「政治的なもの」の親和性、
即ち、「詩的なもの」は容易に「政治的なもの」に変化する可能性がある
ということではないだろうか。
ケンヂが苦しんだのは、自分の「詩的なもの」が「政治的なもの」となって
悪夢を引き起こしたことなのである。
この責任を取るために、ケンヂは東京に向かう。


「詩的なもの」と「政治的なもの」との親和性。
そしてこれを「詩的なもの」の立場から摘発すること。
これが浦沢の問題提起である。


この認識が果たしてどのような結論を導くのか、
以後、一読者として楽しみにしたいと思う。



最後に、この巻の初回限定の付録である、
T-REXの”20th century boys” だが、こういう企画は高く評価したい。
話の内容と関係もしているし。
PLUTO』みたいなのはやめてほしい。
もう、シールはいらないよ…。            


20世紀少年 ―本格科学冒険漫画 (19) ビッグコミックス

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