お先に。

こういう思いやりの心を忘れずにいたいものです。

お先に

 向田邦子さんが、トイレの順番待ちをしていた時のこと。少し長いけれどそのまま引用します。

…やっと私の番が来たとき、ついついいつもの癖で、すぐうしろで、細かく体を震わせていた十七、八の女の子を振り向き、「お先に」と言ってしまった。そのとき、女の子は私を押しのけるようにして、ご不浄に飛び込んでしまった。何ということであろう。私はお先に失礼します、と言ったので、お先にどうぞと言ったのではないのだ。「お先に」という挨拶も通じなくなったのか、この分では今に日本は潰れるぞと、いつもの癖で腹を立てたのだが、彼女の後にご不浄に入り、心を静めて考えたら、そうではないことに気がついた。彼女は判っていたのである。判っていたが、切羽つまっていたのだ。背に腹は替えられなかったのである。

向田邦子全集8 『小判イタダキ』)

 

向田邦子全集〈新版〉 第八巻

向田邦子全集〈新版〉 第八巻

 

 

こういう思い違いは、日常生活でしばしば経験するのではないだろうか。「お先に(失礼します)」なのか「お先に(どうぞ)」なのか。発話者の意図と聞き手の理解がずれてしまったために、人間関係に亀裂が生じる。真意が伝わらず立腹した。けれど、そのズレは向田さんの賢明さによって修復された。さらに、余裕のある理解へと収束した。「なんて失礼な礼儀知らずなヤツだろう!」で思考がストップしてしまう(であろうに違いない)私は痛く恥じ入ったエピソードでした。

 

これも「すっぱいブドウ」のひとつの変形かもしれませんが、若者の礼儀知らずを呪い、不快な思い出にするよりは、こう考えたほうがずっといい。なるほどなあ。ムダに腹を立ててストレスを溜め込む必要はありませんよね。勉強になりました。

それと、わたしはコミュニケーションのトラブルは、原則的にメッセージを発信した方が悪い、と考えています。その立場からすると、「お先に」というのは言葉が足りませんよね。

英語ではどういうのだろう、と思ったら、適切な言葉はないみたいです。お先に「どうぞ」はもちろん「after you」ですが、オフィスの日常の挨拶「お先に失礼します」、ピッタリのものはありませんね。「see you」が近い気もしますが、「あなたがまだお仕事されているのは承知してますが、定刻になりましたので心苦しいのですが先に帰らせてもらいます」というニュアンスはとても無理。対応する言葉がない、ということは「お先に失礼します」という挨拶や気持ちは日本特有のものなのかもしれません。「やることやったのだから、わたしは帰ります。わたしには帰る理由があるのです。」というような。

マンションのエレベーターでの挨拶も気になってしまうわたしには、今回の内容は面白いものでした。挨拶をしても挨拶を返さない人にも、きっと何か理由があるのでしょう、きっと。

 

たった一言でいい流れをつくる 「あいさつ」の魔法

たった一言でいい流れをつくる 「あいさつ」の魔法

 
そのまま使えるあいさつ・スピーチ [最新版]

そのまま使えるあいさつ・スピーチ [最新版]